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10月、京都にて、やや寒い気温に唄うように


十月になりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

近頃はすっかり秋めいてきて、朝晩は半袖だけだと「寒い」と感じられるくらいの気候になりました。これでも平年よりかは暖かいというのですから驚きです。


季節の変わり目には調子を崩しがちです。僕も九月にはさまざまな問題を抱えてしまい、頭を悩ませていました。過去の日記を見返しても、九月にはなにかしらの問題を抱えていることが常であることがわかりました。

傾向からいって、九月はあまり大きく動き過ぎずに、静かに暮らすのが「吉」なのかもしれません。


でも、問題を抱えて——抱えた問題を解決しようとすることが、僕の人生の大きな転機につながってきている、とも思うのです。

だから、問題を抱えている最中の、まさにそのときはとてつもなく苦しいのだけれど、後々振り返ると、あのとき問題を抱えておいてよかったと、思うのです。


見て見ぬ振りををしないで、適切に解決することを試みてよかったと思うのです。


さて、今年僕が抱えることになってしまった問題についてを、ここでは明かすようなことはしませんが、今後書く文章のなかでそれが、ほのめかされることがあるかもわかりません。


仄めかしたら
察してほしいね
仄めかしたら
察してあげられるよ
仄めかしても
察してはくれない
気づかないなら
気づかないままでいいさ

KIRINJI, SE SO NEON〈ほのめかし〉


例年なら、一ヵ月、二ヵ月くらいは不調を引き摺ってしまっていましたが、今年は二週間くらいで快方に向かっています。これは大きな進歩です。


「不幸は群れをなしてやってくる」という言葉を聞いたことがありますが、たぶん、そのように感じてしまうというだけで、実際には調子の好いときにも悪いときにも「幸」と「不幸」は同じぶんだけ降りかかってくるのだと思います。

けど、不幸のモードにいるときには「不幸」に敏感になっているので小さな「幸」を発見することができないのです。


幸福についてを書こうとすると、一歩踏みはずせば胡散くさい、スピリチュアル系の文章っぽくなってしまいますが、僕がここで語ろうとしているのは自律神経についてのおはなしです。


僕は風邪というものをあまり信じません。風邪をひくことは、もちろん年に一、二回はありますが、つまりは自律神経の乱れのことだと思っています。

だから、いくら高熱が出ても、病院にかかることはしません。予防医学のことは信頼していても治療医学のことは、あまり信頼していないのです(あらゆる病気は可能な限り、未然に防ぎたい!)


精神的な不調は自立神経の乱れから来るものであり、それを放置したまま、自身に無理を強いていると、今度は肉体的な不調(それは風邪であるかもしれないし、あるいは腰痛であるかもしれません)として顕れてくる、と考えている――何ら学術的な根拠はありませんが、この論理は僕のなかでわりにしっくりときていて、そんなふうに自分自身に気をつかうようになってからは健康体でいられることが多くなりました。



というわけで京都に来ています。この文章を書いている時点では滞在三日目。

宿の主人に、このあたりで美味しいコーヒーを飲むことができるお店を紹介してもらって、結局は紹介してもらった店の向かいにある別の店に入りました。

何種類かのストレートコーヒーのなかからグアテマラを選んで注文。カウンター越しに、抽出を見守っていると、店主から話し掛けられる。「どうしてこの店に来てくださったんですか」

「宿泊している宿の主人におすすめのコーヒー店を伺ったところ、こちらを紹介していただきまして」

違う。紹介してもらったのは、ほんとうはこの店ではないのだが、話がややこしくなるので噓をつく。

「そうなんですね。この店は先日オープンしたばかりですが、宿の方、来てくれたんですかね」

そうなんじゃないですか、と僕は応えた。


その後も会話は弾んだ。自分がどういう用件で京都を訪れているのかを伝えることになった。

店主はKYOTO EXPERIMENTのことを知らないみたいだったので、できるだけ相手に伝わりやすい言葉を選んで――そうすることによって、僕の話にはやはりいくつかの噓が、含まれることになる――説明した。


 他者に何かを説明するということは、何か(対象)を物語化することで大小さまざまな噓が含まれることになる。

それは「良い噓」であることもあれば「悪い噓」であることもあるはずだ。

噓の良し悪しは噓自体に付帯するものではなく、噓を認識する人間ひとりひとりが主体的に判別することのできるものであるはずだ。


一件目のインタビューは京都芸術センター内の制作室4でおこなわれた。

木と石でてきあがったすてきな建造物だった。この建物は、昔は学校だったという。そう言われてみればそのような感じはする。

なにより僕らが使用する制作室4にも黒板があった。僕らがこの部屋をつかう前に誰かがなにかを書いたのだろう。黒板は汚れていた。皮脂や埃で曇った眼鏡のように。そのけがれが僕を落ち着かせる。


黒板だけじゃない。階段や床の軋む音。木や石は人間がとしを重ねるのと同じように時間を蓄積する。


そう。人間は齢を重ねるのを「老化」と言い表すことがある――そして、「老化」にはネガティブな意味が含まれやすい――けれど、時間を蓄積していると考えれば齢を重ねるのもネガティブなことばかりではないと思える。

細胞が生まれ変わっていく。新陳代謝が進んでいく。何歳いくつになっても「初めて」は経験できるし、生まれ変わった新しい細胞でひさしぶりにそれに取り組めば、それもまた「初めて」の経験だ。

そんなふうにして、日常のなかに転がっているさまざまな出来事に心を奮わせながら息することができれば、この世もそんなに捨てたものじゃない、という感慨になる。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。