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『遺』 詩/散文まとめ


  

蜘蛛

 長年蜘蛛の巣で生きている。
 ある時隣の巣に、自分の体の何倍もある大きな蝶が止まった。
 御馳走を前にした家主。しかし、家主はいつになっても動かない。 ただ、目の前で死んでいる蝶を眺めている。特別口にしようともしない。
 動かない。
 否、動けない。
 蝶は死を晒してなお、鱗粉を纏った鮮やかな羽を見せつけていた。
 よく見ると家主の目は、その羽に吸い寄せられ、意思を失っている。体は石化していた。毛の生えた脚には、しっかりと巻き付けられた糸がこびりついていた。

 あぁ、蝶に殺された醜い子蜘蛛。
 いつかお前の胴体をもぎ取って、その生き様を讃えよう。

 そう嗤って脚を上げようとした刹那、視界がぐにゃりと曲がった。毛の生えた脚には無数の糸が絡まっている。乾いた糸のこびりついた身体が微かに震え、私は自らの死を確信した。

 蝶は死してなお、本質に生きている!


  祖父は健康でした。
 祖父は身体の不自由な祖母を抱え、家事をこなし、毎日牛乳を欠かさず飲んでいます。なにより、肴を綺麗に食べるお人でありました。食後皿を覗いてみると、それはもう、大変満足気な骨の姿がありました。
 私なんかは、肴と目を合わせると、思考を吸い込まれて、当然のことを一世一代の危機のように感じて、徒労の思惟に耽ってしまいます。あの目は、我が身を抉る鬼を、彼岸まで引き込もうとしている目なのです。この妙な癖のせいで、私は肴を上手く食べることができません。私には、彼らの瞳に対抗し得る力が無いのだと思います。故に、祖父は真に強いお人でありました。
 しかし、先日祖父は心臓の病に侵されました。朝の三時、父の携帯が鳴り、私達家族と親戚は車を走らせて隣町の病院へ、急いで駆けつけました。その時のことは、よく覚えていません。ただ、はっきり覚えているのは、病院に祖父は居ませんでした。否、祖父に似た老爺が横たわっていました。私は必至に辺りを見回しました。祖父は何処へ行ってしまったのだろう。心配はせずとも、彼は強いお人なのだから、すぐに帰ってきて、あの心地の良い乾いた笑い声を聞かせてくれるでしょう。私達は知らない老爺のすがたを、ただ、呆然と見つめていた。よく見ると、老爺は口を開けて死んでいた。さながら、虫の抜け殻である。私は居ても立っても居られなくなって、病室から抜け出して祖父を探しに行きました。
 おお、おお!病院の廊下では絶えず病人の叫び声が響きます。私は怖くなって病院の外へ急ぎました。祖父はきっと外に出たに違いありませんでした。重いガラスの扉を開けると、朝方の冷たい風が、心の臓を貫こうと怒りをぶつけてきました。なんだか、言い知れぬ悲しみがこみ上げた私は、祖父の帰りを待つようにその場に座り込みました。 

 後日。祖父は見つからないまま、私達は老爺の告別式を迎えました。見知らぬ老爺に花を添え、微かな死臭に息を止めました。ふと触れた老爺の肌は他人の私を拒絶するかのように冷えていました。誰かの啜り哭く声につられて、気づけば私も頰を濡らしていました。

 老爺、ああ、老爺。
 なみゃだぶつ、なみゃだぶつ。
 さようなら、さようなら。

 葬られて遺された老爺の跡。骨。

 太くがっしりとした見た目に反して、重量のない乾いた音。更に骨壷のなんと立派なこと。入りきらないお骨が、がごりがごりと潰される音はとても心地が良かった。かき混ぜられる、焦げた香り。壷に収まった老爺は、とても満足気でした。

 あぁ、その骨壷に箱が被さった時、私は祖父が亡くなったことを初めて知ったのでした。  


空腹

 見慣れた畳の上に、ぐちゃぐちゃの屍が転がっている。
 分断された女の四肢には見覚えがあった。荒々しく刃物を突き立てられた痕が、事故の凄惨さを語っている。女の右腕は無惨にも食いちぎられており、酷く抉れていた。薬指にはめられた銀の指輪だけが、異様な輝きを放っている。
 死体はまだ新しい。椿の花が床一面に咲いている。しかし、そこに広がる赤が鮮明である分、ここには匂いも音も無かった。ただ、静寂だけがこの部屋の情趣を生み出している。
 ところで一つ、気になる箇所がある。
 この死体、腕も足も残酷に斬り落とされているにも拘らず、まるで後から手を加えたかのように、綺麗に並べられていた。そして、首から上だけがここにいないのである。

 頭はどこへ……?

 思考を巡らせた刹那、視界がぐにゃりと歪んだ。途端に、死臭と血の匂いが、喉の奥まで入り込んだ。むせ返る程の悪臭に、思わず鼻を抑えた。
 否。鼻があるはずの場所に、手を添えた。

 ──首がないのは、"私"の方だ。

 自分は誰なんだ。何故ここに現れてしまったのだろう。言い知れぬ恐怖と不安が込み上げ、ただ夢が覚めることを願うばかりになった。
「───誰かいるのかい?」
 障子の隙間から漏れていた僅かな光が埋まり、ハッとする。躊躇なく開けられたその扉の前では、
「あぁ、帰ってこれたんだね。おかえり。」
 口元を紅に染めた男が、穏やかに笑っていた。すると、"私"は張り詰めた緊張が解けていくかの如く、"頬"が緩んだ。
『ねえ、お願い……』
 気づけば男の首に腕を回し、空の口付けをした。男は小さく舌舐めずりをして、愛おしそうに目を細める。少し触れれば、頬を赤らめた。指で背を撫でれば、口の端から息を漏らす音が、部屋に響き渡った。
 男の唇に、息に、肌に、私の意志が徐々に奪われていく。"私"は、縋るように身体を擦り付けて、男に溶けていった。

 ───ふと、知らぬ間に迷い込んでいた蝶が女の死屍に止まり、ぱたりと動かなくなった。男はそれを見届けると、表情を無くし、目を伏せた。
「胡蝶さへ 誘ひにける ふゆ椿」
 男は膝をつき、雪にさらされていたかのように冷えきった、屍の右腕を手に取る。
「ゆめゆめくらき おのれを知らず」
 男の蚊のなくような歌は、誰に聞かれることもなく、ただ静寂に包まれる。砂を噛むような感覚に苛立ちを覚えた男は、ぴくりとも動かない蝶を片手で手に取り、握り潰す。
「あぁ……きみのおかげで、またお腹が空いてしまったよ」
 そう言って潰れた蝶を投げ捨て、白い腕に歯を突き立てたのは、蝶の幻影に囚われた醜怪な容貌の男だった。


修復

 現実(リアル)は漠然と瞳の皿を盛り付ける
 父は錆びた歯車に絡まり
 母は欠けた螺子を回し続け
 死人はぽっかり口をあける
 
 現実(リアル)は漠然と瞳に色を付ける
 病人の 冷めた匂いには
 誰も涙を流さない  

 あぁ!愛おしき兵隊よ!
 音を奏でて蟻の大行進
 足場の無い壁をつたっては、
 えんやこらさっさの
 えんやこらさっさ

 あぁ!潰れた兵隊よ!
 泥に塗れた脚の湾曲
 おたまじゃくしの醜態が、
 これではない
 これではない


四照花(ししょうか)

 看護婦の艶めかしき腕
 ちらちらと
 霞む視界の端からと
 身体を撫で治め
 身体に触れ抱く
 目を潤ませた蛹が
 屍体の傷を負う顔が
 カラカラに乾いた喉に
 垂らしては拭く
 遺された水に縋る
 飢えた妻の空の声


美しきひと

 生者の慰めに露呈された屍体に落とされる、生暖かい涙。口付けで目覚める屍が、この世にあるとするならば、この涙で甦ることもあらん。
 だが、屍は生きている。ただ老婆の濡れた眼は、真の屍を見ず、ただ己の過去に縋っては、いやいやいやと泣き喚く。置いてかないでよ、私を置いてかないで。何度も何度も、冷えきった屍に、涙を落とす。

 笑っちゃいけないのは分かってるんだけどさぁ

 そんな老婆を、乾いた男の声が笑った。声の主は、屍か、生者か。いずれにせよ、生きる術を失い、耳も目も塞いだ老婆には届かなかった。
「次は私の番なのよ」
 彼女は今もなお、不安に怯えて愚直に死を待っている。

 しかし、いつかの誰かも同じようなことを言った。
「次にこの骨壷に入るのは俺だなぁ」
 他人の骨を拾い、掠れた声で笑っていた男。まるで、子供のように目を輝かせて、焼け焦げた骨を見つめていた。老婆のため、自分のため、屍に変わる準備を怠らなかった几帳面な男は、果たして今報われているのだろうか。
 兎にも角にも、私はあれほど美しいひとを、他に知らない。


 埃をかぶった日本人形。
 開けられなくなった引き出し。
 建物が曲がり、立て付けの悪い引き戸。
 使われない食器棚に、お揃いのグラス。
 賞味期限切れのレトルト食品。
 トイレの便器には、黄色い垢がこびりついていた。
 逃げたインコの鳥籠で、鳥人形が鳴いている。

 リビングに積み重ねられた、ファミコンのソフト。部屋の真ん中のリクライニングチェアを見れば、やたら生真面目で、大きな男の背中を思い出す。大きな手に見合わないコントローラーを、力強く握りしめていた。玄関の前に立てば、
「いらっしゃぁい」
と陽気な女の人の声がこだまする。子供達は、いつも彼女を真似ては笑っていた。

 そして今日、この家の面影は、幻影となる。

 泣き喚く女を、誰もが笑った。仕方がないだろう、と。 女は止まらなかった。女は、太陽を見なくなった。 あの幸せないらっしゃいは、もう、無い。彼女の帰る場所は、一体何処に行ったのだろう。

 女は、今日も虚な身体の重さに疲弊する。写真立てを手に持ち、涙をこぼす。
 ──つまらない。誰にも必要とされない心を癒すのは……あぁ、貴方だけよ。誰にも、私の気持ちなんて、分からないわ。

 写真の中の男は、知るか、と鼻で笑った。


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