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矛盾だらけの心と一緒に生きている


すっかり暗くなった公園のベンチで、コンビニのコーヒーを片手に。身体は少し寒さを感じながらも話が止まらない夜ほど、楽しいものはない。

そんな夜が、つい最近あった。ちなみに話題は決して楽しいものではなかった。寒さに気付かないふりをしてでも、カフェにでも入ろうよと提案する暇もないほどに話をできる相手がいること自体を、楽しい、嬉しい、と思ったまでだ。


「こころの性は女性だけど、他人から女性として扱われることがどうも得意ではない。」

話題はこれで持ちきりだった。

私の場合、本来は表現したい性も女性なのだけれど。それを表現することで自分にとってマイナスな出来事に遭遇してきた結果、この世の中でなるべく傷つくことなく生きる為には女性らしさを掻き消した方がいいのかもしれないと判断するようになった。女性で在りたいけれど、女性らしくならないように気をつけることがよくある。

それは自ら敢えて取り入れるファッション的要素のみならず、リアクションや普段の振る舞いなどにおいても。時と場合によっては、出来るだけ女性らしいと思われないように振る舞ってしまうことがある。相手が男性に限ったことではない。今では耳にしなくなったぶりっ子というレッテルを貼られて以来、女性からの目にも敏感になってしまったように思う。

女の子らしいなどというようなことを言われたら、すかさずそれを全否定できるようなエピソードを繰り広げようとすることはもはや癖だ。女性として見られたくない、ぶりっ子だと思われたくない、と意識して過ごしてきたら、最近は無意識に過ごしていてもぶりっ子だとは思われなくなった。



女性扱い・女の子扱いというものを、どうにも喜べないというところもある。

あの人は女性に優しいから大丈夫ですよーと言われたりすると、私はとんでもない違和感を覚えて返答に困る。それを聞いて、良かったーと思えばいいのだろうか。

男性から、女の子なんだから防犯ちゃんとしないとダメだよ!と心配されるのは嬉しいことなのか。私はそれを言われた時、どうして女の子だから防犯に気を付けなければならない世の中なのだろうか?と考えてしまった。


過去に夜道や電車内で怖い経験をしたことがある私は、他人に言われてはじめて気を付けようと意識するよりもっと、それが実際に起こりうることを知っている。それでも私は、夜道をひとりで歩かなければ職場から帰宅することも出来ないし、友達と夜ご飯を食べに出かけることも出来ないのだ。

簡単に女性扱いされたくないと思うのに、女性であるが故に起こりうることに対する恐怖心にはどうしたって抗えない。自分の中にあるそういう矛盾が、いつまで経っても心地わるい。この矛盾は、一体いつまで?一生持ち続けるのだろうか。

他人に女性として括られることを嫌うのに、女性というだけで犯罪の対象とされてしまうことの多い世の中に存在している事実。そんな中で自分自身を女性という括りで認識し、男性という括りでみなすことの出来る人たちを警戒しなければならないこと。

そういうことに対するモヤモヤが、ずっと、ずっと、棲みついている。もっと、もっと、ひとりの人間とひとりの人間として関わりたいのに。

うまく伝えられる気もしなくて、これまで誰にも言えなかったのだけれど。この間ベンチで夜な夜な話したおかげで、今なら文章に出来そうだと思い、こうして指先を動かしている。


どうして?どうしてこちら側が気を付けなければならないのか?という疑問を捨てきれず、今日まで生きてきた。

恋愛ドラマでよく耳にする、男性側から女性側へという向きの矢印でのみ放たれる、「守る」ということばには違和感を覚えてしまうし、女性専用車両というシステムには疑問を抱いてしまう。

分かっている。私たちは生物学的に違う生き物で、一般的には男性が女性より筋肉量が多く力が強いということも理解はしている。だから守ろうという発想に繋がるのかもしれない。だけど力仕事が好きではない男性だっているだろうし、力仕事が好きな女性だっていると思う。

どうして女性だけがあの限られた車両に乗らなければならないのか。それを利用することは強制ではないけれど、仮にその車両に乗らなかった女性が被害に遭えば、次回からは女性専用車両を利用してくださいなどと注意されるのだろうか。男性も被害に遭うことがあるのに、男性か女性かで判断していいことなのか。

そんなことを考えてしまう。守られることに安心するのではなく、守られなければならないことを悔しいと感じてしまう自分がいる。


そう、私は悔しいんだ。
夜道で怖い思いをしたあの日からずっと。痴漢に遭ったあの日からずっと。悔しくて、悔しくて。一見して女性だと判断されただけで見知らぬ人に欲望をぶつけられたことが、悔しくてたまらない。ずっと、これを叫びたかった気がする。

職場で年上の男性から唐突に肩を組まれることだって、本当は嫌だった。あの頃の私は笑うことしかできなかったけれど。女性が持ってきてくれる方がコーヒーは美味しいと言われて、自分が女性であることに喜びを感じるべきだったのだろうか。あいにく、そんなことを言われたところで、搾取されているとしか思えないのだ。私の女性性はあなた方の為にあるわけではない!と叫びたかった。

こんなにも女性だと一括りにされることが嫌なのに、大抵の場合力で男性に勝つのは難しいということは知っていて。その怖さゆえに笑うことしかできない私は結局、自分を女性、相手を男性と一括りにしている。一括りにしたくもされたくもないのに、恐怖心は消せない。この矛盾だらけの事実に対して、私はどんな風に立ち向かっていこうか。


怒りとか、悔しさとか、そんな感情はあまり表に出せないでいたけれど。この話題は此処にはふさわしくないのではないかと怯んでいたけれど。リナ・サワヤマが怒りについて話していた文章を読んだ時に、ハッとした。

怒りは、パワーだ。乱暴に人や物に向けてはいけないけれど、うまく使えば、それは何かを変える力を持つ。私も、怒りを、悔しさを、書いて表現してみようと思った。私はずっと怒っていたし、悔しさを消化出来ずにいたんだ。


モヤモヤしたものをスッキリさせる為には、学ぶことが必要なのかもしれない。私は、フェミニズムの歴史を学びたいと思う。すべてを一緒にするというような平等が欲しいわけではない。それでも、ただ、分かり合うことは出来ないのだろうか?と、願ってしまうから。

私の恋愛対象は男性だと自認している。それでも男性から女性だと括られることを嫌うのは、まずはひとりの人間 対 ひとりの人間として向き合いたいと思うから。男女を意識するのは、その後だと思っている。これは私の性的指向がデミセクシュアルであることも関係していると思う。

男と女である前に、ひとりの人とひとりの人であれたら。そして私はその特別な人にとっての女性であれたらいいなと願うことは、どうにもこの世の中では難しいことらしい。

学ぶことで、少しでも、心の中にずっと棲みついている矛盾はなくなるだろうか。心地わるい何かをほんのちょっとでも消化できるだろうか。

ひとりの人間として、ひとりの女性として、矛盾だらけの心で。
明日も、私はこの世の中を生きていく。


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