『インターネット的』を読んで考えたこと

ビジョンとか

これからは思いとかビジョンとか大切になりますよ、と2001年の本に書いてあった。
糸井重里、恐るべしである。

ビジョンという言葉を聞いて最初に想起されたイメージは、自社の石碑である。
私の勤務する企業は所謂製造業の括りであり、昔の工場を潰した跡地に本社を建設したのだろうか敷地は広大だ。
入退館用の社員証IDを野外にあるゲートにタッチして、敷地内に入る。
すると社員でも気づかないような敷地の隅に、文字通り石碑に刻まれた指針(社訓)がある。
実際の業務中にも思い出す社員がいるのか怪しく、ソフト的にも石碑の様な扱いだ。
NHK教育で昔放映されていた「ドラマ六番目の小夜子」の校庭の隅っこにある石碑みたいだ。

製造業とか

製造業と言えば、学生時代のインターンを思い出した。
中部地域にある企業のインターンで本社に行けるプログラムだった。
中部地域以外から参加している学生には本社最寄のホテルが提供されており、夜はワイワイ楽しかった。
ただ、肝心のインターンは個人的には残念。
ふわふわした話題に対して、学生に手を挙げさせて発表させる。
それをプログラムを通して続けていた。
何か小学生の「関心、意欲、態度」を測っているような印象。
論理よりも情を、アウトプットよりも何かやってる感じを評価する会社なのかなと思った。
この感覚は同じ製造業に分類される現職において、残念なことに正しいと思える。

着こなし

いい野球選手をスカウトするとき、ユニフォームの着こなしも結構な方が着目している。
自分を客観的に見ることができているってことになるのかな。
今の会社に通勤する社員を思い出す。
基本的には8割方おじさんである。
シャツにはしわが目立つ。
ズボンはだぼだぼで、腹が出ている。
髪があればとっ散らかっている。
カッコよくないサラリーマンは仕事ができるように思えない。
現場での体感もズレてはいない。
みんな白シャツにネクタイ、徹底的な没個性。
会社は社員を工場の高性能ロボットとしてみているが、社員もそれぞれ一人の人間であることを望んでいるようにも見えない。
さあ、私はどうだろうか。

休暇について

シルバーウィークだからだろうか。
この頃めっきり聞かなくなったシルバーウィークだが、もうそんな言葉は無くなってしまったのか。
どちらにせよ、このタイミングで現場の管理職が2/2同時に休暇を取る。
平和な現場である。
「休み」ではなく、「仕事が休み」と強調したい。
「休み」と表現すると、人生は仕事をすることが「ONの状態の全てだ」、という意味合いが出てきてしまいそう。
「仕事が休み」だから、仕事以外の自分の人生を楽しむ日にせねば。
そうして娯楽・レジャーに向かう。
でもこうした消費行動にお金は必須であり、結局は再びお金を得るために労働に向かうことになる。
まるで、漫画カイジの地下チンチロみたいだ。

本を読み進めると、「ローマ帝国時代の奴隷が現代のサラリーマンと似ている」、という言葉が出てきて思わずメモする。
アンテナに引っかかるニュアンスがパターン化している。
思考の癖を認識しなければと思う。
奴隷って船に詰められて大陸移動させられるイメージだけど、ローマ帝国では違っていたらしい。
基本的には働いてもらうが、自由な時間や消費行動もできる。裁量もかなりあったそう。
やはり、適度に貧しくけど、反乱は起こさない程度に長期的に”飼いならす”ことが重要だったそうで、まさしく今のサラリーマンだと思った。
奴隷は消費行動を取ることで、資本が蓄積せず、資本家になれないのか。
それともそもそも階級を飛び越えるのが、奴隷(現代の一般人)には無理な挑戦なのか。
弱い立場の人間だけが抱える問題は、いつの時代も先送りで今に残っているのかなと思った。

年齢とか

糸井重里って、結構年配のイメージ。
この頃はめっきり聞かなくなった後期高齢者に分類されるらしいから、そろそろ、後期高齢者という括りもアップデートが必要だろうと思う。
高齢というところから母方の祖母を思い出した。
祖母は夫に先立たれて、それ以来ひとり(厳密には夫の両親と三人)で4人の子供を育て上げた。
土木系でついこの頃まで働いていたし、今も畑仕事のアルバイトをしていたりする。
何というパワフルさだ。
私の母も思い返せばとんでもないパワフルではあったが、祖母はその上をいっていたのであろう。
そんな祖母には多くの孫がいるし、ひ孫も結構いる。
祖母の部屋には1歳児くらいの子の写真が飾られている。
パッと見ると、遺影のようにも見えかねないが、聞くところによると私の写真らしい。
そこに私の写真があることに特に深い理由は無いと思われるが、数多くの孫とひ孫の写真から何故それが選ばれたのかは気になるところだし、何か思いがあるとするならば、やっぱり嬉しい。

ものごとの見方、関連とか

読んでいる途中、「ものごとに関連を見出せるか、関連付けられるか」が重要だと言っていた大学の卒業式での学部長の言葉を思い出した。
そんなことを思い出してしまった時にはもう本の文字が頭に入ってこないから、紙とかwordにそれを吐き出して頭をクリアにするしかない。
学部長の言葉は、シロとクロで別物だから、という見方ではなく、もしかしたらグレーな部分があるかもしれない、この切り口だと少し重なりが見えるかもしれないという眼を持つことが大切なんだ、と言っていたのだと思う。
ものごとにさっさと見切りをつけるのではなく、妄想してみるとか、ぶっ飛んだことを考えてみる、そんなうちに見えなかった点と点を結ぶ糸みたいなもの、そう、蜘蛛の糸みたいなものが見えてきたりするのかも。
そして、そんな諦めの悪さや遊び心が糸井重里という人の大きい要素としてありそうだと思った。

他にも考えたこと

本の感想を書こうとしているときに面白いのって、本の感想を書くことではなくて、その途中で思考があっちにいったりこっちに行ったりすることだ。
寧ろそれを待っているような感覚すら持っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?