不登校でも大丈夫って、なにがどう大丈夫なのか?
先日、世界一受けたい授業で、「学校に行けはもう古い?不登校で救われる命・・・」
こんなプログラムが放送されました。
家族団らんの時間帯にこのようなことが流されるようになり、時代の変化を感じます。
同時に、まだまだこれからだと感じさせられる部分もありました。
よく言われる「不登校でも大丈夫」という言葉、それに関する気づきをこの番組からいただいたので、まとめてみたいと思います。
まず、何を以て「大丈夫」とするのか。
この点です。
不登校でも進学や就職は可能なので、そこを目的とした場合は、「不登校でも大丈夫」と言えるかも知れません。
ただ、進学にしても、就職にしても、そこに行きつくまでには自己決定が伴い、その自己決定こそが難しいところ。
そこに至るまでの個別対応の難しさ、辛抱を伴いながら小刻みなステップを積み重ねる時間があってそこに辿り着くこと、それが誰にでも簡単にできることとは思えないこと。
この点を、書き残しておきたいです。
この渦中にいる人たちからは、「不登校が良くないとは思ってはいないけれども、簡単に選択できるようには言わないでほしい」という声もあがりそうです。
また、偏差値の高い学校や、知名度の高い企業に入れば将来的な安定は得やすいだろうけれども、それが本当にその人にとっての幸せなのか、という点も考えてみたいところです。
ハッキリとした将来のビジョンを持たずに、大学に進学する高校生達の存在、一旦学校から離れて学ぶ意義や自分の存在価値について考え直して、悩みながら道を選んでいく中高校生達をみている自分としては、わかりやすいゴールに辿りつけるからOKではなくて、そこでどんな風に生きるのかが大切だと思っています。
(福祉や医療の場で、あれあれ?と思うような場面を経験したから余計そう思うのでしょう)
不登校は、その核となるアイデンティティや大切にしたいことは何なのかを家族で再考できる場合が多く、私はそこに価値があると思っています。
素朴でありきたりな人生でも、その中で新たな価値を見いだして、その人その子らしく日々を過ごせること。
不登校が大丈夫な理由を、そんな大切な気づきをくれるからだと言いたくなりました。
自己決定が難しいのは、不登校だからとか、学校に行っているからとか関係ないですね。そう考えるとその論議自体が無意味。行っていても、行っていなくても、さまざまな選択肢が用意され、レールがキッチリと敷かれていなくとも生きてゆける。一人ひとりが、そんな力を付け、それを受け容れることが、社会全体に求められていると感じます。
実際、選択肢は増えているのか
今は、文科省が認可している学校以外にも、学ぶ場所は増えてはいますが、経済面、時間、地理、供給内容面で誰にでも門戸が開かれているとは言いにくいです。
子どもの心理状態や個性や特性を知りながら、家庭の状況と照らし合わせて何がどこまでできるのか、調整が欠かせません。
学校に在学した状態からの一般的な進学・就職ルートも、それはそれで大変ですが、より実績のない選択肢を願いを込めて選ぶ場合もあるため自分の選択に責任が生じやすく、不安も伴います。
このように、将来について、親子で共に検討を重ねることは、その先に活きる大切な時間ではありますが、大人が思うタイミングで対話が成立するかどうかは個別差もあり、葛藤がともないがちです。
最近は、学校で過ごしにくいと感じたときには比較的早期に家庭で過ごす子ども達も増えているようですが、そうは言っても、保護者が仕事を持っている場合は子育てにそこまで寛容な会社ばかりでもないですし、保護者が家庭で子ども対応できるからと言って、家庭任せにしてよいこととも思えません。
学校以外の学びの場での活動を出席扱いにするならば、それ等の学習機関同士での情報交換を行うこともできるでしょうし、そもそも、学びの場や居場所と言うところがあれば行ける子ばかりでもありません。
教育委員会や地域行政が工夫して、せめて心身の安全面や衛生面でのバックアップ体制を整備し、そのリスト化くらいはできるのではないでしょうか。
適応指導教室、中間教室、別室登校のスペースでも、登録数と利用者数のギャップを分析して対応を考えるようなアクションがあっても良いと思います。
真理追求と一般化 その両立の難しさ
現実的に起きていることを広く知り、分析してその要因を探り当てる真理追求。
理不尽さや不便なことを改善するためにアクションを起こして、新しい概念を一般化すること。
この二つがともなってこそ、ソーシャルアクションが成立すると私は考えます。
真理追求があるからこそ、その現象の前後に幅広く目を向ける必要性が明確になるため、それを反映した一般化のアクションが起こせればよいのですが、アクションを起こす時には、どこかしら切り捨てなくてはいけないこともあり、自分は難しさを感じています。
深く広くわかってくると、焦点を絞りにくくなってアクションプランをまとめにくかったり、発する内容で誰かを傷つけていないか気になってしまったり、力強く進めると、今度は何かを見捨てたり見落としているように思えてしまったりするのです。
これも、実際に経験しているからこそであり、それをわかって関わってくださる方が増えて欲しいです。
個人で出来ることは限られますが、出来るだけ多くのポケットと厚い層となってくれるコネクション、目の前のことに誠実に向き合える倫理観と温かさ。そして、具体的な策を示して変化を起こすスキル。
そういうものを持ちあわせた人となれるよう学び続けながら、目の前の子どもに誠意を持って接しながら、同じ気持ちで動ける人を増やしたいです。
いつもながら、乱文にて失礼しました<m(__)m>
ひとり一人に合った教育環境の実現を目指します。