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Essay Fragment/日々のうた織り ④ 手話

60代を生きている今から見れば、霞の彼方のような30代半ばの出来事なのだが、両親や妻や子と、手話で会話する姿を思い続けた幾日かがある。ある日突然、理由もわからぬまま突発性難聴に襲われて、日常会話が出来なくなったのだった。現在では、医学的処方もずいぶん違ってきているのだろうが、当時私は医師からこう告げられた。

「早く病院へ来てよかった。一週間のうちに元に戻らなければ、最悪の場合は、全く聞こえなくなる可能性もありますからね。今聞こえていない左だけでなく、右の耳も。発症のメカニズムがよくわかっていないのですが、3割くらいの確率で、聴力を失う患者がいます。これが確実に効くという薬は、現在はないんですよ。1日1錠剤の薬を先ずは3日分だけ処方しますが、決して1日に1錠以上服用しないでください。3日後にまた3日分、処方しますから」

それ以上使うと、副作用の強く出る薬なのだろうと思いつつ、その薬にすがるしか術はなかった。薬が効かなければ、3割くらいの確率で聴力を失う、という医師の言葉が、心に重くのしかかり暗い気持ちになった。
( もし聴力を失えば、職もまた失うことになるだろう。そうなったら、身体障碍者の認定はしてもらえるのだろうか。どこかに職を求めるとしても、手話技術を習得することが不可欠になろう )
それやこれや思案している中で、脳裏に浮かんで来た光景があった。こんな光景だった。
そのとき自分の子はもう小学生高学年だったが、その子が、ようやくことばらしき声を発し始めた稚いときの光景である。何を言おうとしているのか聞き取ろうとして、父や母や妻と、子のつぶやく声、口の動きにいっしんに耳を傾けていた場面である。
家族の誰かが手話でしか会話が出来なくなったら、他の家族全員もまた、簡単な手話を覚えなければならなくなるのが実情だろう。そして、自分が聴力を失い手話を行えば、父や母や妻や子は、私が何を伝えようとしているのか、じっと私の手の動きを見つめるだろう。その眼差しを想像すると、稚い子に向けていた家族のまっすぐな視線が重なって浮かんで来た。
お互いの気持ちを伝えあえる、「ことば」とは美しい技である。同じように、手話もまた美しい技と呼んでいいものなのか。不安な幾日かのうちに、そういうことも考えていた。

幸いに、薬が効いて聴力は回復した。聞こえるということがどれほど大きな喜びであったか、私はつくづくと知った。その経験があるからだろう。歌謡曲に手話の手振りを添えたいかにもやさしげな演出を見ると、不快になる。ポーズにすぎないと思えるからだ。
先ずは日常の行動を円滑にしてゆくために手話は使われている。それは、切羽詰まったところから生まれているものだ。ただ歌謡曲の歌詞にあたる部分の手話を習得したとしても、それは手話会話者の心を理解していることとはほど遠い。むしろ、ただ雰囲気を作り遊んでいるにすぎないとしか思えない。

突発性難聴に罹り、私のように回復したことを契機として手話を習得した人は必ずいるだろう。実際に使うかどうかに関係なく、「ことば」を用いて気持ちを伝えられない人がいることを、その人たちは真に理解する‥‥そういう人を私は尊敬する。
それが人の痛みを知るという具体的な行動であると思う。私は、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」拙い人間でしかなくて、その後手話を学ぶ気持ちには至っていない。
その言い訳に過ぎないかもしれないが、聞こえなくなるかもしれない—そういう不安に満ちて幾日かでも過ごした者ゆえに、手話を自分が知るということに対して壁があるのを感じる。ふたことみことの手話単語を、「知ってるよ」と言わんばかりに披露している人を見るたび、ものごとを深くとらえられない人だなと思うばかりである。
                 令和6年4月    瀬戸風  凪
                                                                                                setokaze nagi


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