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リアクションとか応答の「正解」

あらかた書いた修士論文に致命的な欠陥があることに気がついてしまった。それからというもの全くやる気が出ない。関係のないこんな文章を書いている暇など一ミリもないのだけど、この図書館も開いていない時期に、もうあと1週間と少しで修正できるものではなく諦めている。無念だ。

諦めて一日中スマホを眺めている。Twitter、インスタ、LINE、Slack、時々パズルゲーム、をぐるぐる巡っている。

自分の生きている世界にSNSがあって良かった。特によく炎上するTwitter(今はXか)はなお良い。あそこには人々の思想や思考がサンプルのように陳列されている。ある一方からはとても賞賛されているケースが、私のタイムラインを占めている大学関係者の目に留まると批判の対象となったりする。そういう時私は、なるほどこういう点がよくないのかと学ぶ。思考の陳列は私にリアクションとか応答の正解を教えてくれる気がする。


人間関係が何もかもうまくいっていなかった小学校高学年から中学生にかけて、母からよく「どうしてそんなに人の気持ちがわからないの」と言われていた。ある時は怒声とともに、ある時は憐憫のこもったまなざしで。どうして、と聞かれても私の方こそなぜみんながそんなに上手く立ち振る舞えるのかわからなかった。むしろ教えて欲しかった。
中学に入ってから、ノートにびっしり「私のしたこと(主に何かのリアクション)」と「その時の相手の反応や発言」「その後の関係性の良し悪し」などの記録をつけた。アドバイスをもとにしてやったけど、我ながら奇行だと思う。そこでは例えば「人が好きだと言っているものを、私は嫌いだとか興味がないというと相手は傷ついたり私を敵だと思ったりする」とか、「私のテストの点数がいいことを気が付かれた相手から「どうやってるの?」などと聞かれても、それは社交辞令でありバカ真面目に各教科の勉強法を説明することではない」とか、そんなことに気がついていった。
そうやって、とにかく少しでも人間関係が穏便になることを願って、人との付き合いかたの「正解」を模索していた。

高校に入ると、そもそも生徒層がガラッと変わって人間関係に悩むことはほとんどなくなった。私自身が記録をもとに獲得した「技」による部分もあるだろうが、それよりとにかく周囲が大人だった。こうして今度は、不快にさせる行動の回避からより好印象になると思われる振る舞いを吸収することに力点が移動した。

随分とマシにはなったと思うが、大学院生になった今でもよく人を不快にさせてしまう。それを指摘してくれる恋人がいるだけ十分マシかもしれないが、本当に治らないのかもしれないと怖くなる。
同時に、相手に負のリアクションをさせないための応答だったり、人の振る舞いの真似ばかりしていたこともあって、自分の意見というものがてんでわからなくなってしまった。あるいは答えのある問いばかりに向き合って、善悪が分かれる議論に抵抗感を覚えるようになってしまったからかもしれない。
なのに、私は研究者になりたいなどと思ってしまい、まだ引き続き大学院に行こうとしている。学ぶことは好きだし楽しい。まとめる作業も好きだ。だけど、研究の問いを立てる際に他の研究とのオリジナリティを出すための発想力に乏しく、さらにその問いがどんな学術的・社会的意義があるのかと問われた途端にわからなくなる。「それを明らかにして誰が嬉しいのか?」「それが明らかになったら何がいいのか?」がわからない。
社会学だから現場で起きているメカニズムや構造を明らかにしたらいいのかと思っていたけど、それだけではダメらしい。それを明らかにすることで、例えば社会的不平等を小さくするための糸口が見つかるだとか、見えていなかった抑圧が見つけられるだとか、そういうのが必要らしい。

これまでたいてい、先輩たちの思考のフレームや信念のようなものをトレースさせてもらってきた。そういう理屈で意義を語ればいいのか、と。これまでの人間関係を円滑にするための振る舞いの獲得様式と同じだ。
だけどまだ、私の考えや私の価値は定まることはなく、どうなる世界がいいのだとか全くわからない。冒頭のTwitterの話にもなるが、大抵私はよくわからない一般市民のようなアカウントと同じ感想を持ち、多くの大学教員と思しきアカウントの発言のような思考には至らず、何度もその話題を目にするうちに後者に思想が偏っていく。Twitterはあくまでもわかりやすい例だが、こんなことがゼミから学会大会から、なんなら研究室内での日常会話からとめどなく起こる。そしてその度に酷く劣等感を抱える。

多分私は、振る舞いの正解を求めているし、何かの事件や制度の変革に際しての応答(リアクション)にも正解を求めている。
だけど、この世界(今の私の狭いアカデミックな世界)で適切とされる視点を身につけること、振る舞いを獲得することはどこまでいっても模倣にしかならず、それでいいのかと突きつけられる。一方で、多分ここは正解なんてない場所で、正解にしていく世界だったり、あるいは正解とされるものに異議を唱えたりする世界なんだと思う。だけど、それでも一定の正解はあって、例えば差別に加担しないとか社会的不平等はどうにか解消に向かうべきとかあるんだけどその塩梅がうまくわからない。あるいは、その正解と自身の作業課題が結びつかないのかもしれない。
ここがずっとぐるぐるしていて、絡まった糸のようになっている。どこから手をつけたらいいのかわからないし、そもそももはや手遅れなんだから諦めて違うところへ行くべきなのかもしれない。何より私はフィールドをなくしてしまった。これから何を研究するというのだろう。

それっぽいことをペラペラと薄っぺらく喋るスキルばかり身について、文章にはひとつもまとまらない。そのペラペラスキルによって博士後期に進学を希望し、就活はゼロというところまで来てしまったが、本当にこれから私は何を研究していくつもりなんだろう。しかもそれは、単なる私の興味だけにとどまってはいけなくて、学術的意義は、社会的意義はとその度に問い続けられ、その度に返事に窮しながらまた先輩方の思考をトレースしてペラペラとそれっぽく喋るのだろうか。

ああ正解が欲しい。答えがあればいいのに。と思ってしまうからやっぱりこの世界は向いていない気がする。


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