見出し画像

いじめられている人を見て安心する醜い私

最低なタイトルでごめんなさい。

でも率直な、私の気持ちです。


バイト先に、若い社員の女性が今年度になってからやってきました。お世辞にも仕事ができるという人ではないのは事実ですが、当初から周囲の、とりわけ店長からの当たりがキツかった。浴びせられる罵声は、怒られている当事者ではない私が萎縮してしまうくらいのものでした。

基本的に私のバイト先は、今時まだあるんかと思うくらい「先輩の背中を見て学べ、1回言ったら次からできて当たり前」という風潮が強いです。以前はそうでもなかったらしいけど、少なくとも私が入ってからはずっとそんな雰囲気が漂っています。多分、そういうのに加担する、慣れている人が残っていくから、この体質は根深く改善されないままなんだろうな。

この「先輩の背中を見て学べ、1回言ったら次からできて当たり前」の風潮は教える側にも教えられる側にも、先輩後輩両者にとってすごくネガティブな効果しか与えていないと感じています。教える側(先輩)は

「なんでこの前も言ったのにまたできてないの?」
「こんな小さなこともわかんないの?自分で考えられないの?」
「あいつに話しても何も伝わらない。成長しないもん。教えるの無駄」
「なんでミスしても言いに来ないわけ?謝れよ」

と感じているだろうし、教えられる側(後輩)は

「また前と同じミスしちゃった、でも言いに行ったらまた?って怒られるんだろうな、嫌だな」
「え、これどっちだろ、こっちな気がするけど間違ってたらなんで勝手な判断するんよ、聞きに来いって怒られるんだろうな」
「ミスするのが怖いから新しいことこれ以上教えて欲しくないな、覚えらんないな」

って考え込んでしまうんじゃないでしょうか。


話は少し代わって、空気というのは伝染するものだと思うんです。
新入社員さんが店長にボコボコに怒られている様子を、最初は同情の目を向けたりフォローに回っていったりしていた周囲のバイトさんたちが、遠巻きに眺めるようになり、次第に冷たい目で見下ろすようになっていきました。中には店長に代わって(誰もお願いしてないんだけど)新入社員さんに「指導」をする人も出てきました。そんな言い方しなくてもいいのに、と思ってしまうほどの冷たい暴言を吐く。

この周囲への空気の伝染の理由は、感覚の麻痺によるものだと思います。つまり
「あんなに当たられてかわいそう、最初だからミスもたくさんするだろうに、目つけられちゃったんだ」
という感覚から、
「あんなに怒られるのは、あの人が仕事ができないからなんだ。だから、怒られても当然だ」
にすり替わってしまった。

人は他人が怒られている様子を見てもかなりのダメージを受けます。それが一回きりなら、グッと奥歯を噛み締めて耐えればいいかもしれないけど、毎回出勤するたびにその光景が表れるのなら、人は自分の心がこれ以上血を流さないように痛みの感覚を麻痺させます。その一つが、この認知の変化だと考えています。


元々気分屋だった店長は、機嫌が悪い時にはミスしていない時でも新入社員さんの仕事ぶりを眺めて粗探しをし、罵詈雑言を浴びせます。「お疲れ様です」という彼女の挨拶に返事をするバイトさんはめっきり減りました。
「なんであいつ、まだ辞めないんだろうね」
という声も、わざわざ本人の聞こえるところで囁かれるようになりました。この不況の中、私より年下の彼女が飲食店である今の仕事先を辞めて新しい就職先を見つけることの困難さを想像したら、泣きながらでも毎日今の職場に来なきゃならないのかもしれません。少なくともバイトみたいに明日から突然来ない、なんてことが、よりしにくい立場であることは間違いないでしょう。


パワハラ、いじめ、なんと称しても嫌な気持ちになるのですが、この状況を見てどこか安心している自分が醜くて大嫌いです。こういう状況の時、大抵ターゲットは一人です。

つまり、彼女がいる限り、私はターゲットにならない。そう信じている自分がいます。

いじめはよくない、傍観は加担に同じと言われますが、私は加担こそせずとも見て見ぬふりをしてしまう、完全な傍観者です。自分の仕事に精一杯でフォローできるほど私自身が仕事ができないせいもありますが、それでも休憩中になんと話しかけたらいいかわからず結局終始無言になります。

人が理不尽とも言えるような怒られ方をしているのを見て、私の心が死んでしまわないようにと取った私の防御方法は、ターゲットが自分じゃないという安心感による麻痺と傍観でした。最初の頃より、心の傷は小さくなったけど私の心は私が嫌いになってしまうほど醜くなってしまいました。


-------------------------------------------

<追記>
まさかのこの記事公開の翌日の授業で取り扱った「Thinking error/Cognitive distortion」のところで、加害者・被害者・傍観者のそれぞれに働く防衛機制、思考の誤り、認知の歪みについて検討する時間が設けられました。理論的に今回の件を見ていきたいと思います。

防衛機制
適応機制とも呼ばれ、葛藤や欲求不満の状態になった時に、緊張状態を解消(適応)するための行動様式。
例:怒られている時に笑ってしまう(反動形成)
  教師に嫌われていると思っていたが実は自分が嫌っていただけ(投影)
  運動苦手だから勉強頑張る(補償)
  テストの点が悪いのはよく眠れなかったから(正当化)
思考の誤り
自分の行動に責任を取らないための考え、言い訳。
認知の歪みは、これがさらに行き過ぎたために治療が必要なくらいになってしまうこと。
例:みんな〜しているから(一般化)
  自分だって辛いんだ(被害者のふり)
  ちょっと〜しただけ(最小化)
  なんとかなる、バレない(過度な楽観視)

適応機制はある意味では反射のようなもので、人間が自分の心を守るために必要なことのようです。自分を守るために必要だから思考の「誤り」とまではいかない。思考の誤りは自分の少し弱い部分を許してしまう言い訳のようなものです。

今回のバイト先の件をグループワークの中で取り上げてもらいました。
①加害者(この場合店長。その他一部のバイトさん)
・新入社員さんは怒られても仕方ない(他者非難)
・怒るのは新入社員さんができないせいだ(合理化)
・怒るのは社会人としての教育だ(正当化)

②被害者(この場合新入社員さん。ただし真意はわからない)
・なんとかやりすごそう(最小化)
・自分が悪いのかもしれない(合理化)
・辛くないと言い聞かせる(抑圧)

③傍観者(この場合私を含む多くのバイトさん。私以外の人の真意は不明)
・新入社員さんは怒られても仕方ない(他者非難)
・怒られているのは新入社員さんができないせいだ(合理化)
・みんな無視しているから(一般化)
・自分がターゲットではないという安心感(自己中心的)
・実は大して怒られていないのではないか(最小化)

なんかこうやって言葉にするとより一層自分が醜く惨めに思えてきます。そもそもこうやって「私のこういう醜い気持ちは今の私を守るのに必要な防衛機制だったんだ」と思うことさえも、もはやこの醜さを醜いと思わないように言い訳として使用する「防衛機制」だったんじゃないかと思ってしまいます。

「仕方がないこと」なのでしょうか。
またしばらく悩みそうです。



ぽてと


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?