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表現するということ~バンクシー展より〜

表現することというのは自分自身を削り出して産み出すことである。
表現することというのは自分の一部を切り取ることである。

二者択一だとしたら、あなたはどちらであると思うだろうか?


* * *

先日、旧名古屋ボストン美術館で開催されている『バンクシー展 天才か反逆者か』を見に行ってきた。
入場してから出てきたのは2時間後で、そんなに広い美術館じゃなかったはずなのにすごく疲れてしまった。

バンクシーの作品は、作る側より見る側の方がエネルギーを使うんじゃないか。

そんなことを感じたのは、バンクシー展へ行ってから数日後のことだった。ずらりと並んだ作品たちの中には、わたしと目が合う作品がなかったように感じたのだ。

私は、アート・表現は対話であり、作り手が作品を通して見る者と対話するものだと考えている。小説でも、音楽でも、絵画でもなんでも、芸術という枠に入るものはなんだってそうだ。

しかし、バンクシー展の作品には、私に直接訴えかけるようなものが見つからなかった。社会問題の提起と強い批判的なメッセージ性が特徴だと有名な彼の作品だが、「何か訴えてんだけどどこか他人事に感じてしまったのよ」と感じてしまうぐらいには、わたし自身に語りかけるものでなかった。


私になにかしてほしい。
私になにか感じてほしい。
私になにか考えてほしい。
そういうメッセージ性はなくて、投げっぱなしみたいな。対話する気は最初から彼にはなくて、見る人任せにしているような印象であった。

しかしそれは、最初から彼が対話などする気がないからなのかもしれない。バンクシーの主なキャンバスはストリートの壁面であり、多くの人は見向きもせず通りすぎて行く。そんな中で、誰かが勝手に立ち止まって見てくれたら、それで何かを感じてくれたらラッキーというように捉えているのだとしたら、そりゃあ作品は一方通行のように、ただメッセージがぽーんと投げられているようにもなるのではないか。

一方通行だから、彼は「わたし」に対して何か問いかけることはしない。
あくまで作品の向こうに彼が見ているのは、社会や権力といった抽象的な集合体ではないか。

私は、対話ありきで作品と向かい合おうとしていたために、疲れてしまったのだ。彼は「わたし」を見ていないことにもっと早く気がつけば良かったのだ。
彼の作品を見てもどこか他人事のように感じてしまうのだが、それでもなんだか作品には引き寄せられて立ち止まってしまう。それは、彼がこの矛盾と理不尽ばかりの社会に向けて立てた中指が、作品を通してガンと伝わってきて、まるで私が責められているように感じるからだ。

私は確かにこの社会を構成している人の1人であるが、同時にこの理不尽な社会は私のせいではないとの思いもある。思考を棄てて他人の同調に並ぶ人も、正義という名の下で行われる残虐な行為も、止まらない資本主義の流れも、全部この現代社会の片鱗であり、なんなら私もそんな社会をくそくらえとさえ思う。
しかしバンクシーは私に、簡単には共感させてくれない。
むしろ、作品を通して痛烈に社会を批判することで、見ている私をも批判する。

「おまえもこの現代社会の一員じゃないか」
「おまえもこの社会が転がっていくのに加担しているじゃないか」
「だから簡単に『私もこんな社会くそだと思う』なんて言わせてやるか」

それが、彼のメッセージではないだろうか。
これはやはり対話ではないし、社会への抗議でもない。
(抗議とは、対話する相手の存在が前提になっているものだ。)
彼の作品は「わたし」ではなく社会にその矛先を向けつつも、結果的には私を指さして発する主張だ。

ここに気づくまで、ずっと私は彼の遠慮のない暴投をキャッチしようと必死に走っていたのである。そりゃあ疲れるはずだ。


* * *

表現するということは、自分の一部を削り出すことだと思っていた。自分自身を少しずつ削り取って、それを糧に作品を産み出す。それがアートであり、作品を産み出すことには、多かれ少なかれ痛みや傷を伴うものだと思っていた。

絵画や音楽や小説といった、芸術の中でも特に作品にストーリー性があるものは、その作品のどこかが、自分だったり自分がなれなかった世界だったりでできているので自分を削っているのだ、という印象だった。作品のエッセンスやコンテンツとして自分自身の生を消費するという意味で「削って」いるのだ。
さらに、突き詰めれば、この世界のルールのなかで表現しなくてはならないからこそ生じる窮屈さやもどかしさを抱えて産みだした結果の作品だから、自分を削ってるのかもしれないとも感じた。自分の世界を表現し、社会にいる誰かと対話する時に、自分とは別の意思を持って動いているこの世界のルールに則らなければならないということは、その枠からはみ出た自分を「削ら」なければならないのだ。

その一方でバンクシーは、ある意味でルールを破っている(いい表現にすると型破りである)。
アトリエの中のキャンバスや絵を描くことが約束された壁面を飛び出して、街のストリートに、世間の目を無視して描く。警察に見つかる前に素早く描けるようにと、ステンシルを使用した描き方にしたらしい。権力やら忖度やらがあるこの世界に中指を立てていることを表現としてるからこそ、「自由」とか「解放」のイメージを持てるのかもしれない。
そのため(と言えるかはわからないが)、私は彼の作品からは表現における自分自身を削るような痛みを感じなかった。

彼はただ、自分自身の一部をトカゲのしっぽのように切り落として、自分自身の存在の証を残しているようであった。バンクシーにとって表現とは、唾を吐き捨てるような、あるいは吸ったタバコの火を足で消してそのままにするような、そんなものではないか。
つまり、自分自身の存在を確かに証明するものではあるが、自分自身ではない自分の一部を切り取ってそのまま置いているような様子である。


* * *

一緒に見に行った人が言っていた。

「作品のすごさのうち半分くらいは、見る人達がすごくよく考えるから、この作品がすごいものに見えるんじゃないかな」

バンクシーがダークユーモア溢れる風刺画を通して考えていることは、実はこの作品展であれこれと私たちが頭を捻らせたほどのことではないかもしれない。この作品のすごさ、面白さに気づけるのは、見る人たちがより深くまで想像し、作品のバックグラウンドを創造するからではないか。
ということは、バンクシーの「才能」は欺瞞であるのか。


いや、むしろバンクシーは、種だけ蒔いてあとは人々が勝手にあれこれと考えることで作品に価値が付与されることまでを狙っているのだろうか。彼なりの正義を振りかざすようなメッセージはあえて全面に出さず、社会課題への批判のみに留めておくことで、安易な解決のような行為に人々を走らせずに社会課題への関心を集めることができることまで想定内なのであろうか。
だとしたら、バンクシーはやはり「天才」である。


ぽてと


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