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曖昧な「好き」の方が安心する

網戸のまま眠ると朝起きた時が少し、いやかなり肌寒い季節になり、私の大好きで大嫌いな秋がやってきました。秋の空気とか匂いは好きだけど、どうしようもなく人恋しくなってしまったり、失敗したり傷ついてしまったことを引きずってしまう季節だから。


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今回は、少し恋人の話をします。

私は自分の好きなところが全然ないので、「ここが好き」と具体的に伝えてもらうことで自己肯定感を上げてもらって安心感を得ようとします。他力本願。
自分が生きていていい存在だと思えなくて、でも生きてしまっている事が苦しくて、かと言って生きることをやめたくてもなかなかやめられない。だから誰かに「生きていて欲しい」「あなたがいて欲しい」と伝えてもらうことで、自分の存在意義とか存在価値を求めてしまいます。

誰かに、とは言ったものの、私の場合これまでその役割はずっと恋人です。過去の人も含めて。同性の友達だと、その人にとっての「一番」に私はなれない。友人に一番も二番も決められないし、コミュニティごとにそれぞれ人間関係があるだろうから。けれど恋人なら、その人にとって「一番」になれる気がした。「彼女」というポストは唯一であるはずだから。(少なくとも私の恋愛観ではそうです。いろんな人がいるみたいだけど。)
一番である事が、まず私の存在に価値を付与してくれているような気がしています。

私が死んだら悲しむかな、私がいなくなったら寂しくなるかな。
ついそんなことを考えてしまいます。
なんか逆説的だけど、幸せな時ほど突然死んでみたくなったりします。私が今死んだら、恋人は悲しみのどん底に突き落とされてくれるかな、なんてことを期待して試してみたくなったり。
でも、そこで「たぶんこの人なら悲しんでくれるし苦しんでくれるだろう」と思えるような愛情の示し方を普段からしてくれているからこそ、じゃあ私の大切な人を苦しめちゃダメだ、生きようみたいに思います。なんて横暴で傲慢な考え方なんでしょう。くそだな自分。


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こんな感じで、自分の存在価値を自分で守ってあげられないので、しょっちゅう自分が愛されているのか不安になったり、なんでこんな素敵な人が私のことなんて好きなんだろうって思ってしまう。だから、ついつい「なんで私なんか好きなん?」ってしつこく聞いてしまいます。

今の恋人は、私の好きなところを曖昧に伝えます。言葉にはなかなかならないんだよなぁ、と困ったように笑います。一応具体的な部分もいくつかあげてくれるけど、なんとなくそれだけじゃない、言葉にまだなっていない部分の私を好きでいてくれているんだろうなと感じています。ひょっとしたら全然私の好きなところなんてないのかもしれないけど、そうだとしたら私にこんなふうに思わせるあの人は相当高等テクニックをお持ちなんでしょう。それはそれで人を一人救ってるのだから、罪ではない気がします。

この、「私の好きなところ」の項目に、まだ言葉になっていない私の部分があることで、私の好きなところに余白が生まれます。今挙げてくれたところだけじゃないんだ、って思える部分です。
この余白こそが私を救っている。
私の唯一無二性というか、私だからの部分というか、私にしか持ち得ないものであることを示してくれる気がするから。


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あまり過去の恋人と比較するのは良くないんだろうけど、少しだけ話に必要なので引っ張り出してくると、とても上手に私の好きなところを挙げてくれる人がいました。その具体性は、ちゃんと私のことを見てくれているという安心感を与えてくれて、聞いた瞬間はひどく満たされるものでした。
だけど、その反動も大きくて。その次に「なんで私のことなんか好きでいてくれるんだろう」と思った時には、その具体性は鋭い刃に変わります。

私の身近にいる人を思い浮かべてしまって、
「でもあの子の方が、この部分私よりすごいよな」
「たまたまこの恋人と知り合ったのが私だから好きになったくれたのであって、あの子と知り合ってたら私よりあの子のこと好きになってたんだろうな」
「これから先、あの子と恋人が知り合う事があったら、私は捨てられるんだ」
なんてストーリーを組み立てて病んでしまう。
考えすぎだ、なんて言わないで。本気でそういう思考回路に陥ってしまう日もあるんです。

具体的であるということは、逆に言えば明確な評価軸になります。
言葉選びが好きと言われると、私よりセンスのいい言葉で順序立てて話ができるあの子を思い浮かべてしまう。
問題関心への向き合うその姿勢が好きと言われると、私より子どものことについて真剣に、より自分ごととして考え行動しているあの子と比べてしまう。
話をちゃんと聞いてくれるのが好きと言われると、私よりちゃんと待てるあの人を想像してしまう。

私のことが好きだと伝えるために言ってくれている具体的な言葉なのに、逆に
「じゃあそれって私じゃなくてもいいやん」
と考えてしまいます。もったいないし、めんどくさい女だとは思いますが。


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結局は、○○だから好きという、何か要素を持っている私のことを好きなんじゃなくて、私そのものが好きと言って欲しいだけなのかもしれません。
私自身の存在を認めてもらうには、私の要素ではなく丸ごと全部を認めて欲しい。でも私に価値がないと思っている私は、どこに私の良さを見出したのかと聞きたくなる。

だから、曖昧な「好き」が持つ余白の力は、その部分にこそ私だけの、私そのものの価値があるのかもしれないと思わせてくれるので非常に大きいと言えます。
「全然私の好きなところ出てこないやん、私のこと好きじゃないんだ」
という思考から、
「明確に言葉にならないけどなんとなく好きってのは、誰かが既に作った言葉ではまだ語れない私の部分を好きになってくれたってことだ。それって私そのものに良さや魅力を感じてくれているんじゃないか」
という思考に変わってから、なんとなくかなり生きやすくなりました。


* * *

結局は自分以外みんな素敵な人に思えてしまって、ないものをねだっては嫉妬をし、自分がひどく惨めになっているだけなのだろうけど、この嫉妬と羨望という醜い感情に絡めとられてしまっている今の私は、いつからこんな風になってしまったんだろう。またこれについては今度考えます。

自分の存在意義くらい、自分で見つけて自分で生きられるようになれればいいのに。できるようになったら、「大人」になれるのかな、なんて思います。


ぽてと


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