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[組織ブログ Ver.25]「自分との対話」は社会人において非常に高いマインド形成なのではないか?

「自分との対話」

このように表現してもピンとこない方が多いかと思います。

ヒントをいただけたのはお客様でした。お客様と「対話」についての話をしていたときに、「自分との対話」と言うキーワードが出てきたのですが、まさにだなと。
本ブログでは「自分との対話」についてを詳しく記載していきたいと思います。


0. 対話とは

「会話」と「対話」、そして「議論」について、この3つはそれぞれ意味合いが異なります。

URUU 資料抜粋

本ブログは、本項を深堀りをする内容ではないため、サラッと次項に進めます。

1. 議論 / 問題解決の限界

前項で記載した通り、「対話」の"対義語"として使われる(と僕が思っている言葉である)「議論」という言葉。ポテンシャライトは「議論」文化でした。議論とは、「勝ち負けが生じる会話」と表現するとわかりやすいかもしれません。とにかくその「議論」において、正解を出すことを念頭に置く。正解を出すこと自体は全く悪いことではなく、むしろ良いことかと思うのですが、議論の特徴としては「声の大きい方が勝つ」と言う傾向にあります。
口撃的なコミュニケーション力がある方、そして役職が高い方/年次が長い方が「勝つ」傾向にあり、その「勝った」メンバーの意見が尊重され、その企業の「企業力」は声の大きいメンバーに帰属するのが議論です。

また、「問題解決の限界」と記載しましたが、前提として問題はクイックに解決されることが好ましいと個人的にも思っています。ただ、論理的に解決できない問題があり、それは「感情」や「価値観」を伴う問題です。
群盲象を評す、という言葉がありますが、「能力」が帰属する問題については、論理的な問題解決手法を使う事は賛成ですが、人間関係/組織関連の問題については、大体が「感情」「価値観」が大いに影響した問題が多いです。この場合、議論で片付けてしまうと、必ず不満が発生します。

話を戻すと、今回は「自分との対話」と言うテーマのブログですが、「議論」と「対応」を対義語として取り扱った場合、「議論」で補いきれない箇所を対話で補うことができる、そのようにご理解いただけると良いかと思います。


2. 「対話における効能」は「相手」に対してだと思っていた。

僕が会社の代表であることも1つの理由だと思いますが、僕が「対話」を学んでみて、真っ先に思ったのは、「相手(メンバー)に良い影響を提供できるのではないか」ということでした。僕自身が「相手」の感情や価値観の理解をしようと努めることで、相手も意見を言いやすくなります。ただ、「安全性」を向こう見ずに構築したいわけではありません。僕が相手(メンバー)を半ば強引に説得する事は可能です。ただ、そこで言う相手(メンバー)の「わかりました」には、あらゆる思いが隠されていると感じています。
例えば、下記のようなイメージです。

①「わかりました。(すごく納得感があった、すぐに実行してみよう)」
②「わかりました。(よくわからなかったけれども、山根さんが言ってるからやってみようか)」。
③「わかりました。(納得感がないけど、反応するのが面倒だし、また言い返されるからやめよう)」
④「わかりました。(…、…。)」

皆さまも、これらのパターンを会話の「受け取り手」としてご経験をお持ちなのではないでしょうか?僕も、上司がいた際にすべての項目の体験をしました。翻って、僕がアドバイス/指示をする側としても、相手(メンバー)の反応を見るようにしています。僕個人的にはすべての項目の反応を察知するように心がけています。
③については表情が変化しますし、「もう少し説明しようか?」と言うアプローチが可能です。厄介なのは④です。「…、…。」と記載しましたが、拒否権がないと思い込んでいるパターンです。というか頭に刷り込まれており、意見/反論をすると言う思考が回っていないパターン、と言ったほうが伝わりやすいかもしれません。

話を本項の問題に戻すと、「対話」を僕が覚えることによって「相手」は少なくとも④はなくなるんだろうなと。そして、③に該当した場合も、「すみません、もう一度説明していただきたいです。」と言う反応をしてくれる可能性も上がるのではないかなと、そんな期待をしていました。その結果、「対話」を習得してくれたメンバーからは、あらゆるポジティブな反応をもらっており、僕に対して意見を言いやすくなったのではないかなと、そう感じています。(まだ障壁はあるでしょうが)。


3. 「自分との対話」とは何か?

前項で記載しましたが、「相手との対話」と言うのは、僕が相手の感情や価値観を許容しながらコミュニケーションを取ることです。

なぜ感情や価値観を許容する必要があるのか?
それは感情や価値観に、年齢や年次経験による優劣が無いと思っているからです。なぜならば、感情や価値観は人によって異なります。なぜ異なるかと言うと、これまで歩んできた人生が異なるからです。人生が異なると影響を受けた原体験が異なります。原体験は、自分で意図して選ぶことができません。本当にたまたま出会った人、たまたま出会ったコミュニティーにて構築されるのが感情や価値観です。「この人は、価値観が優れている」と言う場合がありますが、僕の解釈だと、自分の「価値観」を形成しているのは、9割ほどは「出会った方々」だと思います。もちろん自分が発端となって構築できた価値観も存在するかと思いますが、僕らは偶発的に選んだ人生の中で出会った方々の影響を受けて価値観が形成されていることがほとんどだと思っています。

話を戻します。
対話が「相手」の感情や価値観を許容した会話であると定義したときに、自分が「相手」に対して良い影響を提供することができる、そう表現しました。ただ、ここで思わぬ効能が生まれたと思っています。それは、「対話を学ぶと、自分の感情や価値観とうまく向き合うことができる」ということです。「対話」と聞くと、何でもかんでも「許容」をしよう、と勘違いされる方がいらっしゃいますが、それは違います。明らかに「能力」が起因する項目については、上下関係や師弟関係が発生しても良いと思いますし、感情や価値観が発生する、つまり群盲象を評す、に該当する項目については「許容」することが好ましい、そのような話をしています。

そんな中、「自分との対話」ができるようになると、自身の感情や価値観の処理の仕方といいますか、自分とうまく向き合えるようになってきます。そのため、相手が発した言葉に対しての解釈や、事実をきちんと確認しようとする姿勢、他責にしない姿勢が自然と身に付いてくるのではないかと思っています。そのため、相手の言動に対して右往左往しなくなる効能があると感じています。「Aさんが言っていた▲▲を過度に気にしてしまう」「Bさんのこの行動は自分のせいではないか?」などもうまく向き合えるようになってきます。過大解釈/過小解釈などは少なくなり、適切な向き合いができるのかなと。

ちなみに「他責」と前述しましたが、もう少し詳しく説明しようと思います。他責の対義語は「自責」です。自責とは、「何事も自分の責任として捉えよう」と言う考え方です。ただ自分が「自責」と思っている方は、この質問に回答してもらえればと思うのですが、

「あなたが実行しているのは、“主体的な自責“でしょうか? “諦めの自責” でしょうか?」

主体的な自責とは、不満に感じたことについて、自分がその原因の一部として捉えること。諦めの自責とは、どうせ相手は変わってくれないと思っており、自分が原因だと思っていないが、自分でその処理をすること。

いかがでしたでしょうか?

僕個人的には、昔は後者でした。「相手が変わることを“待つ“よりも、自分が変わったほうが速い」、そう思っていました。その心持ちは今でも間違っていなかったと思っているのですが、一つ障壁が発生しました。それは、「自分が変わり続けたとしても、個の集団であるグループ/組織は変わりにくい」ということ。相手に合わせて自分が変わり続けていると、自分は成長し続けられると思います。どのような相手にもうまく対応できるかと思います。ただ、当然ですが相手は“変わりません“。そのため、個の集団であるグループ/組織の変革が難しくなります。
そんな中で「自分との対話」が優れていると、前述した「主体的な自責」が生まれてきて、相手をリーディングできるようになってくるのではないか、と感じています。


最後に

皆さんいかがでしたでしょうか。
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