暴力と『ジョーカー(2019年)』

先日ワイスピの記事でほんのり映画『ジョーカー』に言及したしせっかくなので、はてなブログに2020年にまとめた『ジョーカー』の感想を一部修正して掲載することにした。


私は映画の記録を取るのにフィルマークスを利用しているが、いまだに昨年の『ジョーカー』(JOKER, 2019)のレビューにいいねをいただくことがあるので今でも時々『ジョーカー』に思いを馳せるが、思い出すたびに作品の内容だけでなく当時の社会状況にぞっとする。考えれば考えるほど製作陣の意図や狙いが分からなくなる作品なのだ。公開当時、「日本人は誰でもジョーカーになる可能性がある」みたいなレビューが多く、一体どんなに魅力的で恐ろしいジョーカーなのかとそわそわしながら劇場に向かったものだ。もちろん今作のジョーカーも魅力的だったが、何というかどういう感情を彼に抱けばいいのか非常に困った。正直怖かった。そして「ジョーカー」という「コミックのキャラクターを模した誰か」を通じて社会に起こった「ジョーカー旋風」も怖かった。



暴力に正義はあるのか

DCコミックの悪役である「ジョーカー」は「バットマン」の映画を通して幾度となくリメイクされているが、ほかの作品のジョーカーと違って「抑圧された弱者だから狂気に落ちて暴力を行使しても構わない/仕方ない」というように、本作では彼による暴力が暗黙のうちに肯定されている。いろいろな映画を見てきたが、このように暴力を肯定・是認される犯罪者がシリアスな社会派作品でメインキャラクターになるのは珍しく、驚いた。製作陣が狙っていようがいまいが相当やばい。彼らは映画というコンテンツを通して「仕方のない暴力は許される」と発信し、作中の民衆にも、映画を見に来た観客にもそのことを植え付けた。私は意識最底辺映画鑑賞者なのでアホなアクション映画では暴力には手を叩くが、流石に本作のようなシリアスな映画で躊躇なく人を殺すことをさらりと表現した製作陣はなんとなく危険だと思う。

「アーサーの世界」と現実の世界

ジョーカーことアーサーは精神病を患っているが、その影響なのか「彼の世界」と現実の世界にかなりズレが生じている。これが発覚するのが作中でも中盤なので種明かし演出が入った瞬間に鳥肌が立った。ただ、ズレがあると表現があったのは、私の記憶ではその1回のみ(違ってたらすいません)。鑑賞中は何も思わなかったが、終わってからふと、「あれ…?どこまでが現実だったんだ?私が見ていたあの『話』は、もしかしたら所々『アーサーが見ていた世界』だったのでは…?」と思った。
駅で金持ちの若者を殺害した「ジョーカー」は、本当に社会からアンチヒーローとして讃えられていたのか?テレビ出演後に燃え盛るゴッサムシティに繰り出したアーサーは、本当に市民たちから歓迎されていたのか?何が真実で何がアーサーの妄想なのか、結局わからないまま物語は終わるのも、先述の暴力の是認に一役買っているように思われる。(もしパンフレットやオーディオコメンタリーなどで既に言及があったらすいません)。

「ピエロ」になったヴィラン・ジョーカー

今作に限って言えば、ジョーカーはピエロのような見た目をしている。これはアーサーが作中で実際にピエロの職に就いていることに加えて社会で「ピエロ(愚者、見世物)」として見られているからだろう。いや、むしろ本作でジョーカーという悪役を「笑い者」にするために外見をピエロに寄せた可能性もある。アーサーは「人生は喜劇」というような台詞を言っていたのも彼をより「ピエロ」に見せるための装置だろう。ピエロはもともと中世ヨーロッパで「権力者を揶揄する」存在で、シェイクスピアらも積極的に作中に登場させている。だからこの映画でもその構図が使われたのだろう。

しかし原作含むその他のジョーカーは「ピエロ」とは似ても似つかない。愚かな道化師ではなく、狡猾で残忍な悪魔である。なぜ「ジョーカー」を「ピエロ」に変更したのか?正直、"IT"に始まるピエロブーム(?)に乗っかっただけなんだろうなとは思う。映画は芸術とはいうが、商業的な側面が非常に強いので流行に合わせたのだと推察できる。でもコミックファンとしてこれは流石に許しがたい。キャラクターを根本から作り替えてしまっている。本当に「ジョーカー」はピエロなのか?

あと、夢のために努力するアーサーをピエロとして扱うことって、社会で必死に生きる人たち(=抑圧される我々)を愚か者だと言っているように見える。ましてやアーサーは疾患を抱えている。お前たちはピエロなのだと、どこまで努力したって所詮見世物だ、見たいな。映画鑑賞中は気にならなかったが、今こうしてまとめていると胸糞わるくなってきた。

子どものままのアーサーと製作陣

色々思うところがあるが、ここはさくりと箇条書きでいく。気が向いたらちゃんと書く。

・「何が笑えるのか俺が決める」→自分にしか関心がない。
・体は大人でも心は子どものまま。特にアーサーが作中に抱く欲求にそう感じた。承認されたい、注目されたい、愛されたい。しかもどれも受動的な欲求。
・製作陣は何を見せたかったのか?製作陣の精神年齢は子どもなの?駄々をこねる子どものように屁理屈ばかりを言い、努力している人間を馬鹿にする
醜い大人だ。

アーサーは「自分」だけにしか興味ないが故にあそこまで暴走したんだろうな。同情はするけど許せはしないよね。従来のジョーカーの方がまだマシなのではないかとすら思う。


■2023.07.14追記


再掲にあたって約3年ぶりに自分が書いた『ジョーカー』批評を読んだが、改めて胸糞悪い映画だなと感じた。自分がアーサーと同じ精神疾患を抱えているから余計に思う。製作にとってはどうやら私は見るも愚かな負け犬らしい。でも負け犬が暴力に訴えても仕方ないことなんだよね?
…別にしないけど。私は「彼ら」の笑い者になるつもりはない。

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