見上げる " その眼差し " には・・・ " 救いを求めて、必死に縋るような思い " が色濃く滲む [第14週・1部]
若き実力派俳優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その筆者の感想と新しい視点から分析・考察し、「人としての生き方を研究しよう」という趣旨の " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事。
今回から第14週・「離れられないもの」の特集記事に入っていく。ちなみに、第13週・4部の記事をお読みになりたい方は、このリンクからどうぞ。
それで今回の記事は第14週・66話の、特に " アバンタイトル " を集中的に取り上げた記事となっている。この放送回では前週・65話から引き続いて、全120話の中でも屈指の " あの名シーン " が入っているからだ。今回はそのシーンを、かなり丁寧に分析・考察していきたいと思う。したがって、2万字を大幅に越え、過去最長になってしまった。またこの記事内容と関連が深い、他の週のエピソードについても取り上げた構成ともなっている。
また今回の記事では、『映像力学』的な視点からの分析や考察、演者の表情や所作、シーン設定などから複合的に解釈・考察を展開する。
言うまでもなく、この特集記事ではおなじみの『DTDA』という手法 ( 詳しくはこちら ) も用いて、そこから浮き彫りになった登場人物や俳優の心情などを探りつつ、この作品の世界観の深層に迫っていきたいと思う。
○掌の温もりだけが・・・ " 心の痛み " を和らげ、優しく癒す
青年医師・菅波光太朗(演・坂口健太郎氏)が、後期臨床研修(3年間)の初年度に起こした医療過誤。 彼はその一件で、挫折と重い十字架を背負ってしまった。主人公の永浦百音(モネ 演・清原果耶氏)の「先生のことを、もっと深く知りたい」という一途な思いに絆されたのか、菅波は彼女にその経緯を話して聞かせた。
さて、なぜこのタイミングで菅波は、医療過誤によって背負ってしまった重い十字架について語り出したのか? やはり、このシーン直前のパラ・アスリート・鮫島祐希(演・菅原小春)とのやり取りが、非常に効いていると思う。
[ 僕は " 人と人との信頼関係 " が築き上げられる瞬間を・・・ 今、目の前で目撃した。そして結局のところ、人の痛みを癒すのも " 信頼関係の構築 " が前提条件なのだろう。そして・・・ " 自分自身の痛み " も癒されたい ]
といったような菅波の微妙な心の揺らぎが、百音に率直に " 過去の挫折を吐露する行動へ " と繋がったのではなかろうか。
そして菅波が背負ってしまった十字架は、あまりにも増幅し過ぎてしまって・・・ " 巨大な壁 " としてそびえ立ち、その行く手を阻む。
そのあまりにも " 巨大な壁 " を目の前にして彼はうつむき、深く大きなため息をつく。
その菅波の心の傷を、目の当たりにした百音は・・・
[ " その場所 " から救い出す方法は、今すぐには見つからないが・・・ せめて・・・ 力不足の私であっても、" 先生の心の痛み " に手を当てることなら出来る ]
と思わず彼の背中を擦ってしまっていた。
そして、百音に背中を擦られながら・・・ 菅波は万感胸に迫るように語る。
この言葉の裏側には、
[ 人の掌の温もりは、こんなにも " 心の痛み " を和らげ・・・ こんなにも癒してくれる・・・ ]
という " 菅波の実感 " が込められていたのだろう。そもそも菅波は、治療を意味する「手当て」の語源を、知識としては " 知っているつもり " だったわけだ。
しかし「人の手の温もりが、これほど痛みを和らげ、これほど癒すものだとは思ってもみなかった」ということを、今この瞬間に、菅波は身を持って体験したということではなかろうか。そして、その実感を『 " 人の手 " というのは・・・ ありがたいものですね』という言葉に込めた。
そして " あの時 " に・・・ " 百音の心の痛み " に手を当てられなかった菅波。そのエピソードとこのシーンが対となり、カウンター的な意味合いを持たせているわけだ。
" 心の痛み " に即座に手を当てる百音と、手を当てることを躊躇する菅波。ではなぜ、このような差が生まれているのか? 後日の菅波が語る言葉に " そのヒント " があると思う。
菅波の元来の気質として、科学的なものや客観的な事実は容易に受け入れ、重要視する傾向が強いと感じる。
それに対して、疼痛や不定愁訴のような「本人にしか分らない痛みや体調不良」を、どのように癒していくのか。これらの諸問題は、科学的な手法や客観的な事実だけを用いて、効率的・効果的に取り除けるものでもない。ましてや、" 心の痛み " になってしまうと・・・ だからこそ、菅波は「人の感情を推し量りながら治療するのは、自分には難しいと思っていた」と語るわけだ。
そして百音が、 " あの時 " に心の痛みを吐露した際にも・・・
[ " 自分の掌の温もり " が・・・ 果たして " 彼女の心の痛み " を和らげ、癒すことになるのだろうか? ]
という疑念と自信の無さが、手を差し伸べる行動を躊躇させる結果へと繋がったのだろう。ではなぜ、菅波は " そのこと " に疑念を抱いていたのだろうか? それは、彼のこれまで人生の中で、
[ 僕自身が・・・ 人の掌の温もりで " 心の痛み " を和らぎ、そして癒される実感や実体験が無かった ]
といったことが、その要因だったことが考えられる。しかし今回の一件で、百音の掌の温もりが伝わることで・・・ 「初めて心の痛みが和らぎ、そして癒された」ということを、菅波が実感したということではなかろうか。
一方、菅波の万感の思いが込められた『" 人の手 " というのは・・・ ありがたいものですね』という言葉を聞いた百音の表情も、これまた印象的だ。
脚本を担当する安達奈緒子氏の作品群では " 掌の温もりが、心の傷を癒す " という表現が、非常に多く含まれている。例えば『透明なゆりかご(2018年)』などでは、様々な問題に直面して苦しむ登場人物が、「掌の温もりを求める・ 掌の温もりで心の傷を癒す」というシーンが、象徴のように多用される。
このように安達氏は、
[ どんなに高度な医療を施しても・・・ 心の傷は " 人の掌の温もり " でしか救えない ]
ということを一貫して作品群に込めて、我々に伝えたいのだろう。この時の百音の表情には、" そのこと " が実感として伝わった瞬間のようにも、筆者は感じらてしょうがないのだ。
○見上げる " その眼差し " には・・・ " 救いを求めて、必死に縋るような思い " が色濃く滲む
ただひたすら、菅波の背中を擦り続ける百音。彼女を安心させようと思ったのか、菅波はこのように語る。
菅波がこの言葉に乗せた思いは、『その患者さんは、今は大丈夫です』ということだったのだろうが、百音は " 菅波自身の感情が落ち着いた " という意味に捉えたのだろう。そして7~8歳も年上の男性の背中を思わず擦っている・・・
我に返った百音は、反射的に手を引っ込めてしまった。しかし、菅波から返ってきた言葉は、百音にとっては思いもよらぬものだった。
さて、菅波のこのセリフ・・・ 皆さんはどのように感じましたか? そもそも菅波というキャラクターは、優等生的な位置づけであり、ドラマ・ファンの方々が名ゼリフとして挙げるものは、" 理想的でさわやかな語感 " というものが多いと感じる。
しかし、『いや、そういう意味じゃない』というセリフに関しては、筆者には「菅波らしくない、思わず人間味が溢れ出た、非常に泥臭いニュアンス」に聞こえてくる。
もっと言えば、全120話の中でこのセリフがこそが、菅波が語ったものの中で「最も人間臭く、泥臭い、稀有な言葉」にも感じられる。したがって、これが筆者の中での " 菅波の屈指の名ゼリフの一つ " になっているわけだ。そしてこのセリフの背後には、
[ 僕の心の痛みは、未だ完全に消えてはいない。" その痛み " が消えるまで・・・ 背中を擦っていて欲しかった ]
といったような、" 彼の切実な思い " が込められているようにも感じられる。またこのセリフを語った直後の、百音を直視する菅波の表情が、これまた非常に象徴的だ。
それはまるで、小さな男の子が母親に救いを求めて、必死に縋るように見上げる目・・・ 筆者には、この時の菅波の眼差しが、そのような彼の心理状況を物語っているようにも感じられ、まさに " 屈指の名カット " とも言えると思う。
そして、この " 菅波の眼差し " に対する百音の表情も、これまた非常に印象的だ。
[ これまで " 大きく頼もしい存在 " だった先生が・・・ この瞬間は " 小さく弱い存在 " に見える ]
[ " 心の鎧 " を脱ぎ捨て・・・ 等身大の人間として、完全に心を開いて、私に救いを求めている・・・ ]
これまで見たこともないような菅波の表情に・・・ 百音は驚きと戸惑いを隠せない、といった心模様だろうか。
さて『映像力学』の視点では ( 詳しい理論はこちら )、下手側の立ち位置の登場人物が " 弱者 " 、上手側の立ち位置の登場人物が " 強者 " となる。ということは、このカットでは、現在の菅波と百音の心理的・精神的な優勢・劣勢を表現していると思われ、下手側の菅波が " 劣勢 " 、上手側の立ち位置の百音が " 優勢 " の状態であることを映像で表現している。
さらに菅波は座位で、百音が立位でシーンが進行することで、自ずと菅波は見上げる視線となり、百音は見下げる視線となる。この二人の体勢の違いでも、現在の心理的・精神的な優勢・劣勢を、的確に表現することにもなっているわけだ。
まとめると、この瞬間の心理的・精神的な力関係は " 百音の方が上回っている " ということを、視聴者にサブリミナル的に提示していることになる。さらにお互いの視覚には、
○座位の菅波の目には、立位の百音が " 大きく力強い存在 " に映る
○立位の百音の目には、座位の菅波が " 小さく弱い存在 " に映る
というように見えるわけで、菅波としては「百音に縋って甘えたい」という感情が芽生え、百音としては「菅波を癒し、救ってあげたい」という " 母性にも似たような感情 " が芽生え始めた瞬間であることを、演者に実感させることで、よりリアルな演技を引き出すことに成功しているのではなかろうか。
そして、アイスクリームのカップを捨てるために " 百音を立ちあがらせる演出 " が、このカットでも大きな効果を発揮しているところが、筆者としては非常に興味深いわけだ。
○『ありがとう』と発した " その瞬間 " から・・・ 彼の「心の氷」が氷解し始める
見つめ合った二人には・・・ 百音の中にも菅波の中にも " 初めて沸き起こってきた感情 " に驚き、お互いにその度惑いを隠せないまま、思わずこのように言葉を発してしまう。
この瞬間に菅波の心模様は、
[ このままだと、精神的に百音に甘えて・・・ 縋りついてしまいそうだ ]
という感情が沸き起こる。その感情を振り払うが如く、「素早く立ち上がって、百音から離れて背を向ける」という所作が、菅波の繊細な心模様を表しているように感じられる。
そして、百音の発した『辛い話をさせてしまって・・・』という言葉に反応して、菅波はこのように語る。
自分が負ってしまった心の傷よりも、患者の心の傷とその人生を慮る菅波・・・ この瞬間の表情には " 自分の不甲斐なさ " に対して、彼自身が憤りを感じているようにも見える。その一方で百音は、
[ 先生が抱えていた心の傷は・・・ " あの日 " から私が抱えてきた " 自責の念 " と同質なものから生まれていた ]
ということを思い知らされ、圧倒的なシンパシーが、彼女の心の中に生まれていく瞬間のようにも思えてくる。
そして、コインランドリーから立ち去ろうとする菅波だったが、動揺のあまりか大切な学術論文を忘れていることに気づく百音。彼を呼び止めて、学術論文を渡そうとする。
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