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志村けんさんに「だいじょうぶだぁ」と言えるよう、この事態を乗り越えていこう

かつてこれほどまでに、世代を問わずみんなが悲しみに暮れる死というものがあっただろうか。

ドリフの全員集合をリアルタイムで観ていたかつての少年少女から、バカ殿様や志村動物園にいつも親しんでいる現在の子どもたちまで。

志村けんさんの訃報に接して日本中が泣いている。

受け取ってきた笑いがあまりに大きかったぶん、その笑いを生み出してきた張本人を失った悲しみたるや尋常ではない。


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男女問わず、世代を超えて愛された志村さん。

売れてもすぐに消え、それどころか一向に芽が出ないまま去っていく者のほうが多い芸能界において、長く第一線で活躍し続けることは極めて難しい。

テレビをつければいつでも会えることになんのありがたみも感じず、それどころか当たり前だと思っていたけれど、そんな存在がいかに希少であることか。

失ってようやく、志村けんという喜劇王の凄みやありがたさに気づかされる。

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正直に言うと、私自身、彼の活動をずっと追い続けていたわけじゃない。

たしかに子どものころは毎週、志村けんのコント番組を楽しみに観ていた。

でも中学や高校のころには段々と、ダウンタウンに代表されるようなエッジの利いた笑いを好むように。


その頃にはもう、志村さんが相変わらずバカ殿コントをやっているのを見るたび、

「ああ、まだ続いてたんだ。でもいいかげんマンネリだよな〜」

なんてふうに冷めた目で見るようにさえなっていた。


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その後、さらに年齢を重ねてからだ。
自分は何もわかっていなかったことに気づくのは。


代表番組「志村さんのバカ殿様」ひとつとっても、

・日本で知らない者がいないほど認知されたキャラクターづくり

・一見とぼけて適当なようでいて、計算されつくした動き

・年齢も国籍を関係なく誰にでもわかる笑いの方向性

・数十年に渡ってゴールデンで特番を組まれる時代を超えた普遍性

などなど、コンテンツ作りの観点からは「凄み」しか詰まっていない。


テレビというのは基本的に視聴率を取ってナンボの世界。
ゴールデンタイムであればなおさらだ。
そんな世界で長らく求められ続けることの大変さたるや。

バカ殿を見て志村けんをバカにしていたかつての私こそが、未熟でなにもわかっていないバカだったのだ。


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3月31日現在、東京を中心に日本でも連日、感染者数が増え続けている。

これまで諸外国に比べて緊張感に欠けていた感の強いこの国だけど、志村さんの死によって「感染は自分にも起きうることなんだ」と、ようやく気づきはじめた人は多いと思う。

一度も会ったことがないのに、こちらは見た目や性格、話し方や飲み方などの所作までいろんなことを知っていて、とても他人には思えない人。

私たちはそんな特別な存在を失ってようやく、目の前の危機に対して目を覚ますのだろうか。

いや、目を覚まさなければならない。

志村さんの死をきっかけに目を覚まし、この事態を乗り越えていかなくてはならない。


それがいままで私たちに笑いをもたらしてくれた志村けんさんへの弔いであり、感謝の表し方なのではないか。

天国の志村さんに、「こっちはもう、だいじょうぶだぁ!」と伝えられるようにしていこう。

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