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「ことり」小川洋子

なんとさびしくて美しい話だろうか?

主人公である「小鳥の小父さん」の一生が、あまりにも何も起こらない、起こらないままに、しかし、一つの人生がそこには確かに存在し、数十年の日常を生きて、ある日存在をやめた、その様子がしみわたるように伝わってきて、まるでそこに「小鳥の小父さん」という人物が小説ではなく実在して見聞きしたかのような読後感。これが優れた小説なのだろう。

ニューヨーカー誌のポッドキャストで、ある作家が別の作家の作品を朗読するというものがあるが、小川洋子という作家を、その朗読で知った。その30分くらいのなんともいえない、やはり寂しい、無国籍なストーリーと、朗読していたアジア系北米人のやわらかな声に魅了され、「ことり」を日本語で読んでみた。その短編も、今回の長編「ことり」も、ローカル色がまったく欠落していて背景に少しぼんやりと感じる程度におさえられている。それは日本人が読むと、おそらく日本だろうが、アジアのどこかの中規模の都市のようでもあり、また別国籍の人が読むと自分の印象を反映できるような、ニュートラルな背景である。

「ことり」で、一つ、直感的に違うなと思ったのは、主人公「小鳥の小父さん」から見て、自分と鳥たちにしかわかることのできない「ポーポー語」しか話せない兄、おそらくなんらかの精神障害を抱えた兄なのだろうが、そういった兄をもった弟は、その兄と同じように静的で控えめな性質をもたないのではないか、ということだ。

私にも精神障害の姉がいて、姉は静的であり受動的であり、姉が一家の問題であり、一家の暗部でもあり中心でもあったが、そういう場合に、その年下の妹は、ともすれば暗くなりがちな一家の潤滑油のような明るい役回りを演じさせられ、というか、誰に言われることもなく自ら必要に迫られてその役割を演じ、姉中心に進んでいく一家の脇役的なサポートを進んで引き受ける、ということだ。姉と母が喧嘩していたら仲裁に入る勇気もなくおろおろし、しかし、その家を離れたところでは家での不当な役回りを帳消しにするかのように、活発で社交的で積極的なのである。

障がい者の兄も、それを見守る弟も、受動的で静的、ということはありえないのではないか、という何かが違う腑に落ちない感覚を、「ことり」の兄弟設定には感じた。兄と弟の性格が完全に被っている、それが、本質的に違うのではないかと思った。それは家族という一番核となる集団の中で、しかもその家族が一般社会から見て不完全である場合に、その成員が社会で生きるためのバランス感覚のようなものだ。

そのキャラクター設定の根本的な違和感を除けば、しかし、この物語は、騒々しく詮索好きで人間中心の世の中で、器用には生きられなかった兄弟の人生を、小鳥という、日常生活で少し耳を傾ければ感じることができる、ひっそりと軽やかな存在とのつながりを通して、全編淡々として静謐な言葉使いで語り切る、さびしくて美しい話だ。


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