見出し画像

功利主義と正義。そもそも理想郷は本当に理想郷なのか?

■オメラスという理想郷を知っているか?

画像1

【理想郷】と聞いたらどういうものを思い浮かべるだろうか。
ユートピア、いわゆる平和で争い事はなく、飢えるものもおらず
楽しく暮らせる場所ではないだろうか。

アーシュラ・K・ル=グウィンの短編集「風の十二方位」に収録されている“オメラスから歩み去る人々”には“オメラス”という【理想郷】が絵が描かれている。

タイトルにある“歩み去る人々”はなぜ歩み去る必要があったのか。
【理想郷】とはいったい何なのか。
そして今現在の社会と比較してみようと思う。

※ネタバレ注意!
アーシュラ・K・ル=グウィンの短編集「風の十二方位」“オメラスから歩み去る人々”の核心に触れている。
まだ読んでないものや結末を知りたくない方は注意を。

■オメラスとは

・理想郷オメラス
オメラスについてわかりやすく説明しているものでいうと、
『MOZU』というTBSテレビとWOWOWの共同制作のドラマで
東 和夫という男が口にしていた。
冒頭の画像がその彼である。

オメラスという国は、平和で、楽しく明るい、
ユートピアのような国である。
飢えることも戦争も差別も経済危機もなく、人々は親切で活気にあふれる
最高の国である。

しかしそんな【理想郷】にも秘密があった。

・オメラスの本当の姿
このオメラスという国は実は、とある子どもの犠牲の上に保たれていた。
その子どもはある建物の地下に一人で、鎖につながれ閉じ込められている。
彼は、なぜ自分がこんな状態なのかもよく理解できない。

オメラスが理想郷であるためには、この子どもをずっと閉じ込め放置しておくことが条件である。
助けたり優しくすることも許されない。
もしその条件を破れば、さまざまな災いが降りかかる。

オメラスの人々は、ある年になるとこの事実を知らされる。
この事実を知った者は、初めは誰もが苦しむ。

子どもを助けたいと考える者もいるが、
そのために何百万というオメラスに住む人々に降りかかる災いを心配する。そして自分にはどうすることもできないと理解する。

その後オメラスの人々は、オメラスでの幸せを今までよりも大切だと思うようになる。

オメラスという【理想郷】はたったひとりの子供を地下に閉じ込めておくことで他の人々が幸せに暮らせるならと住人達は見て見ぬふりをしている国である。

■この社会はオメラスかもしれない

・ユートピアではなくディストピア

ユートピア文学で挙げられる【理想郷】の特徴は以下の通りである。

・周囲の大陸と隔絶した孤島である。

・科学と土木でその自然は改造され幾何学的に建設された城塞都市。

・生活は質素で規則的で一糸乱れぬ画一的な社会である。

・ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされている。

・住民の一日のスケジュールは労働・食事・睡眠の時刻などが厳密に決められている。長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のために使う。

・人間は機能・職能で分類される。個々人の立場は男女も含め完全に平等だが、同時に個性はない。なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難で危険な仕事をさせている場合がある。

・物理的にも社会的にも衛生的な場所である。
黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。


・変更すべきところがもはやない理想社会が完成したので、歴史は止まってしまっている(ユートピアは、ユークロニア(時間のない国)でもある)。

Wikipediaより引用

この特徴は実社会によく似ていると考える。
【理想郷】であるからもちろん“理想的な”部分もあるが、酷似しているように感じる。
むしろこのユートピアの特徴で疑問視すべき所の方が現代の社会とマッチしている部分ではないだろうか。

例えば“隔絶した孤島”という表現も、現在では交通やネットによって
距離は昔よりも短くなり、他国の文化などは入ってきやすくはなっている。
しかし日本人独特の【村意識】は逆に広がっているように感じる。

日本人の中に“隔絶した孤島”が出現している、いや“隔絶した孤島”を植え付けられているのかもしれない。

そのほかにも“画一的な社会”であったり、“生活の固定化”であったり、
“人間は機能・職能で分類され個性はない”など酷似している部分がある。

この要素だけでみると、実社会はユートピアというよりディストピアに近いと考える。

・功利主義か正義か
オメラスの物語の大きなメッセージとして
“功利主義”と“正義・道徳”がある。
功利主義とは幸福と利益を価値の標準、人生の主たる目的とする倫理思想である。

①功利を第一とする考え方。
②幸福を人生や社会の最大目的とする倫理・政治学説。
最大多数の最大幸福」を原理とする。
英国のベンサムやミルによって唱えられた。功利説。
(デジタル大辞泉(小学館)より引用)

オメラスの人々はこの事実を知り、この問題にぶつかる。
子どもを助けるという正義・道徳とオメラスの幸福という
最大多数の幸福という二律背反の壁に誰もが苦しむ。

功利主義とは社会全体に利益が行き渡ることであり、
より少ない苦痛を追い求めることを重視する。

オメラスの幸福と子どもを天秤にかけたとき、
オメラスの人々は功利主義において子どもを放置することを選び、
子どもへのひどい仕打ちで、社会全体の利益を保つことを選んだのである。

オメラスという理想郷に住みながら地下に幽閉される子どもは
社会の利益を享受していないことには蓋をするのである。

実社会でも突き詰めて考えればまったく同じことが言える。
そもそも民主主義や資本主義自体がこのオメラスの子どもを生むシステムなのではないだろうか。

最大多数の最大幸福は多数決であり、少数派は地下に幽閉されるが如く封じられ、その犠牲のもと多数派は利益を享受している。

一般大衆は誰もがチャンスを与えられていて、地下に幽閉されるのは努力が足りないからだと言うだろう。
しかし、その努力すら許されていないのが少数派なのである。

何をしても、何をしようとしても、最大多数の幸福ではないという理由で却下され、蔑まれ、蓋をされる。

そこに正義や道徳は存在しない。
最大多数の最大幸福が唯一の正義であり、道徳である。

■歩み去る人々

・オメラスから去るということ
オメラスの事実を知った人の中にはひっそりとオメラスを去る者がいる。
オメラスの周りには一面の荒野が続いている。

オメラスから歩み去る人々はオメラスの“最大多数の最大幸福”に疑問を持ったのではないだろうか。

自身やオメラス全体のために、子どもを犠牲にしてもよいのかという
疑問に苛まれてのことだろう。

私はこの“オメラスを歩み去る人々”こそ実社会で言うところの社会不適合者ではいかと考える。

オメラスの社会に疑問や反発心があったとしても、それを許さぬ民のほうが
多数派であり、正義とされるのだ。
そんなディストピア的な世界を捨てた者こそが、社会不適合者ではないだろうか。

オメラスの人々は子どもを放置さえしていれば、誰もが幸福なのにどうして
その幸福を揺るがすのか理解できなだろう。
子どもを犠牲にする社会に反抗する異分子、その社会に適合しない、
適合できない者はオメラスを去るのだ。

オメラスを去ることは、一面荒野の危険地帯で生きることさえ難しいかもしれない。オメラスから踏み出た一歩目で死ぬかもしれない。

そんな中にも、オメラス=ディストピア社会に疑問を持ち、愛想をつかし、
荒野に向けて歩き出す者は確実に存在する。

実社会のシステムに適合しない者こそ、敵者生存の可能性があるのだ。
オメラスの最大多数の最大幸福はあくまでも【理想郷】であり、
すべての人間が幸福であることは不可能なのだ。

できうることは多数決ではなく、個人個人の幸せを精一杯追求することにある。

・オメラスを去って向かう場所
オメラスを去った者がどこへ行くのかは明らかにされていない。
勝手な想像であるが、オメラスを去った者は本当のユートピアを発見するのかもしれない。
そのユートピア、【理想郷】は理想郷と言うには程遠く混沌として、
何もかもが乱れ、画一的ではない不規則極まりない場所なのかもしれない。

しかしそれこそが人間が生きるということであり、
善があり、悪があり、光があり闇がある。
そういうものを地下に幽閉することなく、ただそこにある存在として認め、
個人の幸福を追求している場所なのかもしれない。

オメラスという実社会は【ユートピア的ディストピア】であるのに対し、
オメラスという実社会を去った者が辿り着く先は、
【ディストピア的ユートピア】ではないだろうか。

■まとめ

オメラスという理想郷は、子どもを犠牲にして最大多数の最大幸福という
功利主義のもと成り立っている。

実社会もオメラスに酷似しており、ユートピアというよりディストピアに近い。

オメラスから歩み去る人々は実社会では社会不適合者にあたると考える。

社会不適合者は功利主義ではなく自身の正義と道徳において、
オメラスというディストピアを去り、何もかもが混沌として清濁併せ持ち、存在を認められる【ディストピア的ユートピア】にたどり着くのかもしれない。




この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?