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お金の価値は人を殺す。憲法25条の罠。

■日本国憲法第25条 “生存権”

憲法すら枠外に置く社会不適合者が語る憲法25条の罠。
それは人の生活をお金によって決めるという悪魔のような呪文ではないかという戯言である。

憲法第25条

1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

■“お金”と社会不適合者

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・お金とは対極の社会不適合者
私の感覚では、社会不適合者の多くはお金に対して
無頓着な者が多いように思う。
なぜならお金より価値を感じるもののために動くことがあげられる。
そのお金より価値のあるものとは各個人で様々であり、
一概には言えないが無形のものであることが多い。
“現金”や“資産”など形のあるもの、
(中には形のない資産もあるが)ではない。

例えば必ず“ひとりの時間”が絶対的に必要な者はお金をいくら積まれても
“ひとりの時間”を譲ることはできない。

社会不適合者はその無形のものに対しての執着、
というか渇望が激しいのだ。
社会に不適合とされた理由もそういった常軌を逸した渇望や、
他者からは想像、理解できないことを大事にしたいということが原因であると考える。
お金よりも自身のこだわりや渇望をどうしても得たい社会不適合者はお金という概念とは対極の存在である。

■お金の価値とは

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私はお金の価値なんてものは存在しないと思う。
丁寧に説明するなら、【価値は定まっていない】、
突き詰めると【お金には価値なんてない】ということである。

確かにお金は【価値の交換】という役割がある。
しかしその主体というか、本質は【お金の多寡】ではなく
【交換されるもの】でないといけないのではないか。

100円のパンは飢餓に飢える空腹の者であれば100円以上の価値があり、
満たされている者であれば、その価値はないに等しいのだ。
お金や資産が豊富にある者とない者の100円は価値がまるで違う。

お金には価値なんてないのだ。

■過剰すぎる“お金”を得ることへの執着

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・社会のカースト制度
昔日本には【士農工商】という身分制度が存在した。
武士が頂点に君臨し、商人が最下層であった。
(農民・職人・商人の間に序列はなかった説もある)

よく時代劇などでみかける武士の子は武士で、
農民の子は農民というアレだ。

現代でお金を稼ぐことははたらくことで大半は“商人”である。
当時は武士よりも階級は下だったはずだ。

この地位が逆転したのは言うまでもなく
【お金の多寡】が重要視されたことにあると考える。

お金を持っているものが偉い、そうでないものはゴミだ。
はたらいてお金を稼げない者は無能だ。
現代の社会はそういう風潮に塗れている。

・はたらくこと=お金を稼ぐこと=正義?
「はたらく」というと、
私からすれば美談や聖人君子のような言葉ばかりが並んでいる。
日本人ははたらくことが好きなんだろうなぁと思う。
そして「はたらくこと」が「正義」であり、
その「正義」をともに語り合えない者を排除する傾向にあると思う。

おそらく「はたらくということ」を一般に問い、美談を一皮剥けば
「生活するための現金収入を得ること」だろう。

何の不自由もなく生活するために、労働をして金を稼ぐだけの話で
「社会に対しての関わり合い」なんてものは、まったく関係のないことだと考える。

例えば、自由に使える現金100万円が毎月振り込まれるのであれば
はたらかないという選択をする人もいるのではないだろうか?
もし現金100万円以上が振り込まれたらはたらかないという人は
さんざん言っていた美談はどこへ行くのか。
その“はたらく”という“正義”はどこへ行くのか。

結局、自分の生活のためにイヤイヤながらはたらいていて、
それをどうにか正当化するために美談を作り上げ、
さもそれが正義かのようにほざくだけなのだ。

要するに一般大衆が思う正義などはお金というもので簡単に黙らせることができるという脆弱な正義に他ならない。

この「自由に使える現金100万円が毎月振り込まれたら・・・」
の話を何人かに聞いたことがある。

即答で「はたらかない」という人もいた。
しかし、「それでもはたらく」という人もいた。
「それでもはたらく」という人は毎月100万以上ほしい、
要するに金をたくさんほしいという人である。
そういうひとはがんばってはたらくといい。

そして、そんなに金持ち志向がない人に理由を聞いた。
「毎日に張りがないから。」「退屈だから。」
別に否定はしない。
そりゃ暇だろう。だまって家にいりゃ暇だ。
好きなことも毎日やりゃ飽きる時もあるだろう。
だが、「何もするな」とは言っていない。
「はたらく」以外の行動の指針はないのか。

何かを表現したり、創ったり、会社勤めよりもっともっと世の中に役立つことをダイレクトにできるかもしれない。

私が言いたいのは「はたらく」ことが懲罰というより、
「はたらく」ことでしか生きていけないということが懲罰であると考える。

■生きることはお金を稼ぐこと?

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・生存権ってお金を稼ぐことなの?
金持ちになりたいと思ったら、努力は必要である。
しかし憲法の条文に沿うと社会不適合者だったとしても人並みに暮らす事ぐらいはできなければならないはずだ。

憲法で健康で文化的な最低限度の生活なんて謳ってはいるが、そもそもその「文化的な最低限度の生活」というのがどんな生活なのか明らかではない。
社会保険、社会福祉、公的扶助が揃っているからすべての人が最低限度の生活を送っているのか?

ではどうしてこうも【お金の多寡】だけでこうも差ができるのだろう。
その差を埋めるための政策ですら何も埋まらない。
問題は【貧富の差】だけではない。

文化的で最低限度の生活とは、ぎりぎりの衣食住で奴隷のようにはたらき、
ただただ息をすることなのだろうか。

同調圧力によって、奴隷化した人間がお金を稼ぐ機械になることが
最低限度の生活なのだろうか。

そこに何か信念やお金以外の価値を見出し生きていきたいものは、
同調圧力と憲法第25条に殺されてしまうのか。

・健康で文化的な最低限度の生活って?
以前フランスには芸術には種類があるという記事を書いた。
▼(フランスでのアートの序列について)

そのフランスでは「文化的な最低限度の生活」を「週末に観劇に行くこと」
だと示した判例がある。
絶対に観劇しなければならないというわけではなく、週末に観劇できるほどの時間的余裕と経済的な余裕がなければならず、さらに芸術によって自身の心を豊かにするという目的もあると考える。

芸術によっても人は豊かになる。
何も飯があって、服があって、屋根があるだけで人間的な、文化的とは程遠いのではないだろうか。

そこには何者にも侵すことのできない人権が基礎にあり、
それを全うするためのものが【生存権】ではないだろうか。

“働かない働きバチ”が適当に仕事をして、利益の再配分を掠め取ろうとするのは勝手だ。
しかしお金という価値のないものには目もくれず、本当の意味での貢献と
利益追求と自身の幸福のために戦う社会不適合者の邪魔をするのはやめてほしいのだ。

出る杭は打つというあり得ない圧力によって、発展と進歩は確実に妨げられている。
それは「最低限度の生活」どころか、人間としての「最低の生活」であることを自覚しない限り、【貧富の差】が埋まることはないと考える。

■まとめ

生存権での【文化的で最低限度の生活】とは何かと明記されておらず、
結果的に【お金の多寡】によって決定されている。

お金に価値を見出さない社会不適合者は、その貢献性や能力などは同調圧力によって「出る杭は打つ」の標語のもと潰される。
そして【最低限度の生活】ではなく、【最低の生活】へと落ちていく。

フランスのように【文化的で最低限度の生活】に一定の基準と感覚があり、
お金の価値ではなく、心豊かさを促進し評価できるような体系でないかぎり
この国でおこる【差】は決して埋まることはないだろうと考える。

そして私自身は資本主義、いわゆる拝金主義と決別した。
過剰なお金を持つことはこれからないし、必要もない。
社会不適合者であるから当たり前なのだ。

ただ利益は追求したいのだ。
誰かがよかったと思えるようなお金ではない利益を追求したいのだ。

そのためには、忌まわしき“はたらく奴隷”や“働かない働きバチ”と戦わなければならない。

そいつらを価値のない札束でバシバシと両頬を引っ叩いてやるのだ。

これは社会不適合者による、社会へのテロルなのだ。


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