見出し画像

コロナの後遺症と藤井風のライブと村上春樹の1Q84の話

 12月のはじめについにコロナウイルスに負けた。ワクチンも3回打っていたし、基本的にそういう類のウイルスには強いほうだと自負していたのに。コロナが流行り始めの頃、妹が罹患した時も同居していたが移らなかったし、当時の恋人が濃厚接触者になったときこっそり丸2日隣で寝ていたときも私は元気だったから。ついに負けたという表現がぴったりとくる。ウイルス側も試行錯誤の日々なんだろうな。どうにか人間を困惑させ、破滅に向かわせようとしているに違いない。これは宇宙人の陰謀かもしれない、、。


 コロナ明けから「天然ぐあいが増してますね」と言われるようになったので「コロナの後遺症ですかね、こわいですね」とか言ってヘラヘラしていたら、調べたところほんとうに脳の一部がボヤッとすることがまれにあるらしい。まじか。
しかしこれからはなにかと「コロナのせい」にできるからある意味生きやすいかもしれない。もしくは「あの人コロナになったからさ」とマウントを取られるかもしれない。

 これもコロナの後遺症だったら言い訳できるのになということの中に「すぐイライラしてしまう」というのがある。31歳女性、ペンネーム「年々お局さん」からの投稿です。といった具合。本気で若年性更年期を疑う。でも私は美容のためにプラセンタ注射を定期的に打っていて、プラセンタ注射は更年期障害の治療にも使われるのでおそらく違う。コロナの後遺症事例にもイライラすることは出てこない。つまり「ただのお局さん」ということ。本厄だからかな。私のせいではない、厄のせいだ。コロナのせいでないのなら、厄のせい。厄のせいでなければ満月のせいかもしれない。ずっと自分のせいじゃないように考えている自分に気づいてまた落ち込む。なんのせいでもなく、自分の心の影のせいだよ。


 そんなタイミングで行った藤井風のライブ。今読んでいる1Q84に宗教の話が出てくるから余計に誰かを強く支持することに億劫なのだけれど。それをとっぱらっても、心の氷が溶けるような、絡まった糸がほぐれるような、そんな時間だった。あなたは最高。わたしも最高。そう思えて心がぽかぽかとした。完全になにか心の靄が晴れたし、胸がキュンとした。そういう意味では何かを信仰する人たちの気持ちは理解できる。

 1Q84を文庫本で読んでいて、今最後のところ。読み終わるのが惜しい。村上春樹の小説って夢中で読んで、読み終わった時にフワっとするから好き。なにが言いたいのかとか結末がどうだとかそうゆうことではないところがすき。SFみたいにあり得ないことが起こるのに、受け入れられてしまうバランスが好き。比喩表現の多様さと、人間の三大欲求に忠実なところが好き。美味しそうな料理とお酒が出てくるところも好き。村上春樹はいま73才(たしか)で、彼の書く新しい文章をいつまで読めるのか勝手に案じて悲しくなる。同じ時代に同じ言語を扱う人間として生まれてくることができて嬉しい。



 母方の祖母はとある新興宗教を信仰している。今思えば(というか1Q84を読めば)それが当時のブームのひとつだったのかもしれないなと理解できる。物心つく前からその神様や先生と言われる人のことを聞かされていたから、特に違和感はなかったが、小学4年生の頃に嫌気がさしたことを覚えている。それから私は何かを信仰することにセンシティブになっている気がする。「ほんとうにそれは、自分の意志なのか?」常に自分に問うている。それなのに恋愛のことになると自分を見失うのはなんでだろう?


 とても好きになった人に出会って恋人になって別れてもうすぐ1年が経つ。未練はないし、あの頃の自分は信仰の中にいた気がする。つまり本来の自分の一部をどこかに置き去りにしていたということ。こうやってまた誰かに出会って好きになって別れるんだろうなぁと思うと、果てしなくてクラッとするが、何があろうとも全てわたしのgraceの精神で生きていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?