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君は僕じゃないから

小学3年生になった息子が「野球をやりたい」といったとき、僕は小躍りするほど嬉しかった。

夏には一緒に電車を乗り継ぎ、プロ野球の試合を観戦したり、本屋で「選手名鑑を買って」とねだられたり。そんなふうに野球を楽しんでいるのは知っていたけれど、「野球をやりたい」となるとは思っていなかった。

野球は練習が厳しいぞ。礼儀作法も大変だぞ。

そんなことをいってすぐに後悔した。そんなことをいって「あ、そう。じゃあ、やーめた!」といわれるのが急に怖くなったからだ。幸い、息子は「大丈夫」とつぶやいた。

危ない、危ない。

始める前からやる気を失うことをいってどうする。



僕は野球をやったことがない。

陸上の経験はあるけれど、それ以外のスポーツはまったくもってやったことがない。技術がないから実は偉そうなことが言えない。

少年野球チームに所属してから半年後、コーチのひとりとして活動に協力することになった僕は、

「休みの日は、社会人野球で汗を流してます」

「高校時代、甲子園のマウンドに立ったことがあります」

というほかのコーチたちの中で、意外にも肩身の狭い思いをしていた。

身体をどう使えばいいのか。どんな練習をすれば試合で活きるのか。テクニックやノウハウを説いたところで説得力がないのは分かっている。

それでもついわが子を前にすると、何かを捧げたくなってしまう。

「ストレッチは欠かせないからな」

「ボールをキャッチするときはグローブをこう!」

「投げるときの重心はまっすぐ」

そんなことを夕ご飯のあとのほろ酔い状態で力説しても、たいていは「わかってるから」と一喝されて終わる。



あるとき、妻に「あの子はあなたじゃないのよ」と言われた。

息子が少年野球を始めて2年がたっていた。

なんだかんだ野球をするのが楽しいと話す息子は、今ファーストのポジションを任されている。背番号は3番だ。

久しぶりの公式戦にのぞんだ息子のチームは「余裕で勝てるだろう」という初戦で惨敗した。

相手チームとは以前にも試合をしたことがあり、そのときはうちの圧勝だったのに。

数か月の間に相手チームは戦力をあげ、同年代ながらしっかりとした連係プレーと、メンタルの強さを魅せつけるまでになっていたのだ。


試合終わり、監督を囲んだメンバーの数人は泣いていた。

息子に目をやる。泣いていない。


帰宅してグローブを磨く息子に僕は

「練習が足らないな」

といった。

「力の差が圧倒的だったよな。こっちが練習している間に、向こうはその何倍も練習してたみたいだ」

僕の言葉に息子は呆れたような顔でうなずく。

「明日から素振り200回。トスバッティングも200な」

「ええええええ」

蚊のなくような声を出す息子。

練習は裏切らない。練習こそが強さを生む。努力すればするだけ、成果となって喜びを生むんだ。




本当は僕も、少年野球をやっていた。

小学2年生のときだ。

野球を始めて2ヵ月がたったころ。休日に両親の買い物に付き合っていたときだ。小さな小さなフードコートで、急に身体が動かなくなった。

座ったまま、立ち上がることができなくなったのだ。

「おい、いくぞ」

と父親に声をかけられても、僕はフードコートの片隅のテーブルで地蔵のように座ったまま。

ふざけていると思っていた父親も様子がおかしいことに気付き、僕を背中におんぶして買い物を続けていた母親の元へ、事情を説明しにいった。




病名の分からない病気だったと聞いている。

病院のベッドで2か月間、寝て過ごすことになった。

当分、スポーツはしないほうがいいと医者に言われた。


肩をケガした。指を骨折した。脚を捻挫した。野球にありがちなケガをしたわけでもなく、野球特有の病気を発症したわけでもなく、まったく関係ないであろう奇病のせいで、僕は野球ができなくなった。

そのあと、高校生になって陸上ができるようになるけれど、僕のスポーツ人生は小学2年のあのとき、一度とまってしまったんだ。




日に日に息子へのリクエストが増えていく僕に、妻は「あの子はあなたじゃないのよ」と言う。

息子が野球をしていると、ついあの頃の思い出がよみがえってくる。がんばりたかったのに、がんばることができなかった。あの日の自分に、息子が重なる。逃したくない思いにかられてしまう。




そうか


僕は息子じゃなく「あのころの自分」を輝かせたいと思っているのかもしれない。

あの子を応援しているようで本当は、あのころの自分を癒しているのかもしれない。



…それじゃいけないよな。

自分じゃないぞ。息子は僕じゃない。

息子の姿を、ちゃんと息子の姿を見るんだ。



湿気のない気持ちのいい朝。小さな庭で咲いているパンジーに妻が水をやっている側で、息子がグローブを磨いているのが、ベランダの窓越しにわかる。

どんな話をしているんだろう。


「ママ、パパに言っておいてくれた?」

「うん、言っておいたよ。あなたとパパは違う人間だって」

「そう、ありがとう」


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