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『ノルウェイの森』と「流動体について」インターテクスチュアリティ考察2

前回、村上春樹の『ノルウェイの森』冒頭の、青年ワタナベを苦しめた目まいとその原因である過去のトラウマ(精神的外傷)の内容及びその描写方法が、小沢健二の「流動体について」におけるそれらと類似していると述べた。

『ノルウェイの森』では、過去の「君」と「僕」が、亡霊のように現在の「僕」の記憶にhaunted(取り憑いて)いるからこそ、ワタナベは目まいがして気分が悪くなる。一方、「流動体について」では、第一連から第三連までは、「僕」は、過去からの亡霊の存在を認めながらも(②もしも間違いに気づくことがなかったのなら/並行する世界の僕は/ どこらへんで暮らしてるのかな」)それに苦しめられる様子はない。第三連では以下のように強く宣言さえしている。

「 ③ 神の手の中にあるのなら / その時々にできることは / 宇宙の中で良いことを決意するくらい 」

「決意をしなければならない」程には、「良くはないこと=過去の亡霊が連れてくる思い出」に耽美的に浸ることもあると解釈できる。しかしそれでもここまでは、「僕」が何を振り払おうとして、何から自由であるために「良いことを決意」しなければならないのかはわからない。

それが明らかになるのが第四連において初めて登場する「君」である。

「④雨上がり 高速を降りる / 港区の日曜の夜は静か / 君の部屋の下通る / 映画的 詩的に 感情が振り子降る」

前回述べた通り、静かな夜すなわち、静かな決意(「良いことを決意」)した直後、「僕」の心は、「君の部屋の下通る」と、ドラマチックに、哀感を持って、「感情」は「振り子」のように揺れる。それ程までに「君の部屋」は、過去の「君」と「僕」の亡霊がまだ取り憑く。

「流動体について」では、「過去」にはとらわれない美学が「その時々にできることは / 宇宙の中で良いことを決意するくらい」という決意で述べられる。しかし「僕」の理性は第五連から第七連に従って崩れそうになり、そんな自分の理性が「いや大丈夫です!」と、「過去」に置き去りにした「君の部屋」にまだ燻る「君」と「僕」の残滓を否定しようとする。「いまここ」の「僕」に意識を集中させようとしながら。

「⑤ もしも間違いに気づくことがなかったのなら ?/ 並行する世界の毎日/ 子どもたちも違う子たちか?/ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける//⑥だけど意思は言葉を変え/言葉は都市を変えてゆく/躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼/彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く// ⑦それが夜の芝生の上に舞い降りる時に / 誓いは消えかけてはないか?/深い愛を抱けているか?/ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける」

五連では、不穏な影が現れ、「いまここ」の「僕」に問いかける。もちろんこの影は「君の部屋」から現れた「過去」の「僕」である。「過去」の「僕」は問いかける。「もしも間違いに気づくことがなかったのなら?」過去の価値観に従い生きていたなら、「いまここ」の「僕」の生きる世界とパラレルする(「並行する世界」)では、「現在」の「僕」が選んだパートナーとの間に授かった子供たちとは「違う子たち」がいて、「僕」は「間違いにきづくことがなかったのなら」「いまここ」にいる「僕」の子供たちとも会えなかったのだろうか?

それは、「現在」の「僕」という存在及び「僕」の家族たちという毎日のゆるぎない確固とした足元さえ揺るがす問いである。「ほの甘いカルピスの味」という、加える水の分量によっては「ほの甘く」も「甘苦く」もなるあの乳酸菌飲料の心もとない味付け、毎回同じではない不穏な甘さ(過去の思い出やノスタルジーや感傷)が、今まで特に疑問を抱かなかった「現在」の「僕」とその家族の日常を心もとないものにしていく。

あんなに当たり前だった「現在」の「僕」とその家族は、「君の部屋」から現れた「並行する世界の僕」により、どちらが「本当の僕」かという、誰にも判断のつかない闇に誘われる。

小沢は「ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける」と、毎回異なる味なのに、それに疑問を持たず飲んでいたあのカルピスがもう「懐かしさ」より「不気味さ」や「不穏」を際立たせながら「並行世界」を知りながら「いまここ」を生きようとする揺らぎ始めた「僕」の決意の脆弱性を「不思議」という言葉で暗示する。

そんな五連での「いまここ」を生きることで得られていた自己の確信が「君の部屋の下」の通過を契機として始まる「過去」の「僕」からの、自己懐疑や不安に対し、理性的な「現在」の「僕」が反論するのが六連である。

「⑥だけど意思は言葉を変え/言葉は都市を変えてゆく」と六連は、五連を否定することで始まる。「宇宙の中で良いことを決意する」という「意思」は、過去の自分なら発しなかったような「言葉」を現在の自分は発し(「言葉を変え」)、そのいまの「僕」が発する「言葉」が環境(家庭)を変えていくことを、「僕」は以下のような客観的な事実で説明しようとする。

「意思は言葉を変え」て「言葉は都市を変えていく」とは、そこに住む人が変われば、その居住区の文化が丸ごと変わっていくということであろう。20世紀のアメリカの都市における、居住者の変遷に伴う、その街の文化が入れ替わっていくことを想起させる客観的事実を根拠として、「現在」の「僕」は「過去」の「僕」に、「過去」を捨て去った意義を説く。

一世代前に住んでいた人たちの無念や哀しみや執念が、街にどれだけhauntedしようとも、次世代の住民たちがそのエリアの都市文化を変えていくことは可能なのだと、「過去」の「僕」の亡霊からの問いかけに「現在」の「僕」は反駁している。

アメリカのゾンビ映画や恐怖映画の潜在不安となりうる、アメリカ先住民や過去迫害されてきた人々が、植民者によって殺戮された歴史を、取り上げられた言葉の代わりに、その土地にhaunted(取り憑いて)植民者に不安を与えてきたという、植民者の加害意識を思い出したい。

新しい「意思」(植民者)による新しい「言葉」を変えれば、その「言葉」(植民者の言葉)が、それまで使われていた先住民の「言葉」を失わせ、その居住区の文化はまるで異なるものとなってしまう。

「過去」の「僕」の亡霊が「君の部屋」から現れて「現在」の「僕」に、「君は僕を否定するのかい?過去の僕を切り捨てるのかい?」と問う時、「現在」の「僕」には「過去」の「僕」と「君」を捨て去ったという座りの悪い加害意識が芽生える。

「躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼/彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く」と六連後半で、人類の長い歴史のなかで、過去を何度も塗り替えて新しい居住者が現れる様子を「躍動する流動体」という言葉で、全人類はそうやって「過去」を乗り越えてきたのではないかと「現在」の「僕」は「過去」の「僕」からの問いかけに反論をする。そしてその居住者の交代劇は「数学的」(確率統計的に必須であり)「美的に」(美しくも新しい力強さを持って)「過去」の文化は滅び、「現代」がそこにとって代わる様子、栄枯盛衰のドラマは「彗星のように昇り」それは「現在」の「君」(「君の部屋」の「君」)だって理解してくれているはずだと釈明はつづく。

しかしそれでも、「過去」の「僕」の価値観を否定した、「現在」の「僕」は加害意識を捨て去ったりはしない。釈明だけでなく、「過去」の「僕」の亡霊よ、静かに眠りたまえと祈るように、七連では「それが夜の芝生の上に舞い降りる時に / 誓いは消えかけてはないか?/深い愛を抱けているか?/ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける」と、「現状」があるのは、「過去」の亡霊たちがいたからこそであり、それを「間違い」だと言い切れる「現在」の「誓い」は、「過去」の亡霊たちを決して忘れもしないし、しかし「宇宙の中で良いことを決意する」ことは「いまここ」の「僕」の「誓い」なんだよと「過去」を受容しつつ、しかし「過去」と「現在」をまぜこぜにもしない。『ノルウェイの森』冒頭においてワタナベが気持ちが悪くなったのは、「過去」の「僕」と「現在」の「僕」が分離されず、「過去」の自分に今なお苛まれ続けている罪悪感のせいだろう。

小沢が描く「僕」が「過去」を受容しながらも、「過去」の価値観にふりまわされないように、「過去」からの亡霊に対してしっかりと祈りと誓いを捧げる点で、ワタナベよりも、「過去」の一切を引き受けている様にも映る。

小沢が描きだす「僕」が「過去」の「僕」と「君」つまり「過去」からの亡霊を追悼し、自分の今を生きることが最善でありながらも、時折その亡霊について思いを馳せるこれからについて存外希望的なのが、八連である。

「⑧ それが夜の芝生の上に舞い降りる時に/ 無限の海は広く深く / でもそれほどの怖さはない / 人気のない路地に確かな約束が見えるよ」

過去からの問いかけが、「現在」の「僕」の元に降りてくる時、その「過去」の亡霊からの問いの繰り返す波は「無限の海」のように「広く深く」その問いへの返答として正解は見つかりづらい。「でもそれほどの怖さはない」のは「人気のない路地に」見える「確かな約束」のおかげである。この「確かな約束」とは「過去」の自分に対し、「過去」の「僕」を含めた統合体としての「僕」が、あらゆる「僕」が満足するような将来を約束するという、前述の「誓い」を指す。この「誓い」は、「過去」の亡霊たちを決して忘れもしないし、しかし「宇宙の中で良いことを決意する」ことは「いまここ」の「僕」の「誓い」なんだよと「過去」を受容している。

八連での「誓い」「約束」は、ただ「過去」の自分に対しての「誓い」や「約束」ではなく、それは神の前での「誓い」であり「約束」であると、「僕」は強調する。それが九連となるだろう。

「⑨神の手の中にあるのなら / その時々にできることは / 宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう」

小沢の歌詞に登場する「神」についてはここでは深く触れないでおく。ただ、自分のなかの理性的な「神」ではなく、「過去」の自分と「現在」の自分の和解と協調を「神のみ前で誓う」ということは、宗教性を帯びる、民の「祈り」に耳を傾けてきた「神」であろう。

「神」がどういう神なのかについて詳しくこの論考では触れないと言ったのは「流動体について」のB面が「神秘的」であり、そこにそのヒントが隠されているからである。「神」問題については「神秘的」について論考する際に述べる。

ここでは、「過去」の自分との和解のために「神」の御名のもとにおいた「誓い」を「現在」の自分が立てているということが重要である。そしてその「誓い」とは、何度も繰り返されてきた「その時々にできることは / 宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう」という言葉に違いない。

「⑩無限の海は広く深く/ でもそれほどの怖さはない /宇宙の中で良いことを決意する時に」

先程、どんな「神」であるのかについて、ここでは触れないとは言ったが、「流動体について」と「神秘的」の歌詞を読むことで見えてくる小沢が時折言及する「神」が彼のファーストアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』における「神」を知る手がかりになっていくだろう。

『犬は吠えるがキャラバンは進む』において描かれた、個人の魂の孤独とそれを庇護する「神」は抽象的であったが、1993年から2017年までの長い旅のなかで少しずつ具象化されてきたようだ。四半世紀かけた青年の旅立ちから、その青年が子供を授かり新たな視点で「神」を描く時、小沢の「神」は少しずつ形を帯びてくる。

長くなってごめんなさい。

次回は「神秘的」に行きそうですが

「ウルトラの母」と「団地妻」の類似考察が、現代どのようにコミックス表象で変化を遂げているかを説明するのにベストな例が思いついたので、次回は奥浩哉のコミック『GIGANT』で活躍するパピコは、ウルトラマンが長い時を経て女性の身体へと変遷していったという考察ですwwwww


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