ウルトラの母は団地妻だったかもしれない

昨今、ある俳優さんがその方の配偶者を「嫁」と呼んだことで、なぜ公の場なのに「妻」とか「配偶者」とかせめて「パートナー」とは呼ばないのかという一部の声がとりあげられていましたが。

長年日本のポルノフィルムをけん引してきた日活ロマンポルノ「団地妻」シリーズでは、一応「妻」なんだなと。「妻」ということばは「夫」に対する公で発言する女性の配偶者を示す言葉として、最も「性」を感じさせないものだときっと思われてきたと考えるのですが、「団地妻」は「団地嫁」ではないんだという発見がありました。

「嫁」呼びを嫌う人は、「妻」呼び推進者であり、「妻」であり「母」であることを女性の役割を示す言葉として尊しとするのかもしれませんが、女性を性的なフェティッシュとして扱う場合(つまりモノ的に視る場合)もまた「嫁」よりむしろ「妻」なのではないかというところに、「妻」という言葉の持つ脆弱性を認めずにはいられません。

さておき。1971年に日活が、西村昭五郎監督、白川和子主演で製作した日活ロマンポルノ第1作「団地妻 昼下がりの情事」は決して古い女性イメージとしての産物ではないようです。

2010年に中原俊監督により現代劇として「団地妻 昼下がりの情事」は再映画化されているからです。もちろん日活による製作です。1970年代に流行した「団地」に住む専業主婦が企業戦士の夫がいない間に団地に忍び込む他者と淫行するというイメージは現代に至るまでロマンフィルムの文化として継承されています。

現在の団地事情は変化し、若い世代は郊外の団地に一旦入居しても、家族の成長に伴い更に部屋数が多い住居形態に移り住んだり、もしくは駅から至便なマンションへと移動し、実際に、70年代に増産されたニュータウンとしての団地に住む人々は高齢化しています。また、新たな居住者層として、海外に出自を持つ人たちの新たな文化土壌ともなっています。

にもかかわらず、「団地妻」というイメージがこれほどまでに慕われるのは、ひょっとして、「母」への回帰を含んでいるのかなという仮説を本稿では立ててみたいと思います。

先日知人が、「ウルトラの母」の肉体における「熟女っぽさ」は「団地妻」に通ずという至言を発し、この「ウルトラの母」のユニバーサルな宇宙の母、地母神をも感じさせる象徴性を持つ身体に、決して若い女性の持つ曲線美とは異なる、年を重ねた女性が持つ肉体の特徴を乗せて「ウルトラの母」を出現さしめた円谷プロの先見性に驚いたわけです。「ウルトラの母」がテレビ「ウルトラ」シリーズにおいて初登場したのは1973年『ウルトラマンタロウ』においてであると円谷プロ公式HP(https://m78.jp/character/mother/)では記載されています。更にウルトラの母とは以下のようであるとも同HPにはあります。

銀河の平和の為、『宇宙警備隊』を助け、宇宙規模の医療活動に従事する『銀十字軍』の隊長。どんな凶悪宇宙人をも改心させてしまうやさしさを持ち、光の国の超人たちを暖かい愛情で見守り続けている。

ちなみにウルトラの父は1972年放映の『ウルトラマンA』が初登場で同HPでは以下のようであると紹介されています。

銀河の平和の守護者、『宇宙警備隊』の大隊長。『宇宙警備隊』発足のきっかけともなった全宇宙に伝わる伝説の『ウルトラ大戦争』を戦い抜いた歴戦の勇士で、誰からも尊敬されている。

つまり、ウルトラの母は『宇宙警備隊』の大隊長であるウルトラの父の配偶者であり、歴戦の勇者であるウルトラの父やその息子たちを治癒するために『銀十字軍』の隊長として、傷ついた勇者や心が歪んだ凶悪者をヒーリングするために「やさしさ」と「暖かい愛情」で彼らが、戦いから帰って来るのを待っているわけです。

これはまさに、企業戦士として戦う夫を団地で待つ妻の構図と類似します。日活ロマンポルノの団地妻シリーズが1971年に第一作を発表され、ウルトラの母が初登場する『ウルトラマンタロウ』は1973年であることからも、70年代の高度経済成長期に大都市圏郊外にニュータウンが造成され、団地から戦地(大都市の勤務先)に通勤する企業戦士たちは第二次ベビーブームを引き起こすわけですが、そのウルトラの母の持つ聖母性と「団地妻」の淫乱性は同じ大都市郊外に生きる「女性」に読み込まれた(期待される)二面性であったとも言えます。

「嫁」ではなく「妻」であるとか、女性の聖母性は認めても女性の性欲を認めない「女性」の本来の生態をより「清い尊い」ものとすればするほど、子供を産み育むための男女両方の性における、本来の姿から遠ざかるようにも思えます。「妻」という呼称を女性配偶者に与える最適なものと思考ストップしていいのかなという部分も含めて、「妻」が持つ危うさは、同時に「夫」が持つ危うさでもあり、その危うさこそが社会全体の人間関係の文化土壌を育んでもいる部分を否定しないこと。

「ウルトラの母」は「団地妻」同様にエロティシズムを湛えているからこそ美しく、あたたかい。どちらも70年代日本社会が生んだあたたかな、いまや郷愁すら感じる「ふるさと」(←女性を郷土と重ねるメタファーは多いですがそれはあまり非難対象とはならない不思議w) であることは、「団地妻」に悶えるこころは「企業戦士」に憧れ、果ては日本中が「半沢直樹」にシンパシーを抱くメンタリティを持つということをそろそろ認めても良いのではないか?

日活ロマンポルノや性の表現とは、「半沢直樹」に留飲を下げる自分の中の小さな正義感と地続きであることを認めながら、「団地妻」「ウルトラの母」「ウルトラマン」的な「半沢直樹」をゆるやかに家族で笑ってみられる風景も良いのではないかなと考える昼下がりwwww

さあ、職場にレポートを提出して参ります。間に合うのでしょうか?

小沢健二と村上春樹論の続きはちゃんと続きますwwwwww


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