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『もののけ姫』を見るとなぜ哀しくなるのか

宮崎駿監督作品『もののけ姫』を何度も見てこれってただの「環境保護」がテーマの作品ではないはずだし、日本の古の人々の生態系とのつながりかたのスピリチュアルな話だけでもなく、なんなんだろう?

でもとにかくいつも泣きたくなるのね。って思っていて。

今回60回目くらいでやっとわかったので書いておきます。

哀しくなる理由はやはり、この映画で活躍する三人アシタカ、サン、エボシがみんな元居たコミュニティを追われている人たちだからなのかなとぼんやり私が感じる寂しさの理由について考えてきたのですが

結論として、この作品は

「社会的・経済的弱者が生態系を破壊しなければ生き残れない世界構造は昔も今も変わらない」

という点が哀しさの理由。

どうしてエボシはシシガミ殺し(シシガミの森の神様;顔は人、身体はカモシカ)を決行するのかずーっとわからなかったんだけどエボシの社会的階級について考えてみるとその理由がすぐわかる。

ヒエラルキーの頂点に帝(ミカド)がおり、帝の命である「シシガミ殺し」(帝は永遠の命を欲しいらしい?)をエボシに託すのは、ジコ坊という僧兵なんですね。ここまでで、天皇制が下敷きにあり、社会的・経済的には僧侶及び侍が権力を握っていることが明らか。で、エボシの守るたたら場は、エボシがジコ坊にそそのかされてシシガミ殺しに旅立った後すぐ、浅野の侍たちに襲われるのです。これはジコ坊と浅野(侍・武士)が結託しており、警備が手薄になった隙にエボシが大事にしているたたら場は僧兵と武士によりその製鉄技術故に狙われるわけです。

つまり、エボシって僧侶でも侍でも商人でもなく、ほんと何の肩書もない若い女性なんですよね。その若い女性が「女郎屋」に売られそうになったやはり若い女性にたたら踏みを教え、男たちを牛飼い及び兵力としてたたら場を率いて、ハンセン病の方かな?と思われる人たちに銃を作らせる。つまりエボシは社会のマイノリティを集めたコミュニティのリーダー。そのコミュニティが知恵と技術で鉄と銃という二つの魅力を持つから僧侶や武士がそこを乗っ取ろうとする。

エボシが山を焼き、木を伐り、鉄を作り、銃で動物を殺し、神殺しをしなければならないのは、エボシより上の社会階級で経済力を持つ、既存の権力層からの圧力があるから。エボシがマイノリティを守ってあの世界で生き抜くには、帝からの命に従い、ジコ坊と渡り合い、侍に襲われないようにするために、森を焼き、森の神殺しをしないといけないという力が働くから『もののけ姫』を見ると物凄く悲しくなる。

現代に置き換えるなら、南半球のひとたちが、森林を切り開いて北半球の富める人々のためにコーヒー農園を作ったり、安い肉を提供するために肉牛プランテーションを経営するがゆえに、地球はますます温暖化していく。

そんな経済格差の末端層が地球を破壊しないと生きていけないのがこの何百年も、貨幣経済が地球に行き渡ってしまってから続いている。

「社会的・経済的弱者が生態系を破壊しなければ生き残れない世界構造は昔も今も変わらない」

ことをこの映画を見る度に思い知らされる。

エボシが腕を、サンの母のヤマイヌの神モロに食いちぎられて悲しくて辛いのは、エボシが、社会的マイノリティのコミュニティの若い女性のリーダーとして生きていくため、美しさを差し出して自分より弱いひとたちを守られなければならない女性キャラクターだから。

そして冒頭に書いたように、タイトルになっているもののけ姫であるサンもまた、人間社会から零れ落ちていった命。サンの親がサンを捨てた後、森のヤマイヌがその命を救わなければ、サンは生き残ることさえできなかった。

アシタカは呪いを受けてコミュニティを出された王子。

サンもアシタカもエボシも、大人の権力構造から零れ落ちたからこそ、森を頼り生きるサンとアシタカVS森を切り開いて神殺しをせざるを得ないエボシという対立構造に立たされる。

本来三人とも、いびつな貨幣経済である大人たちの既得権益の被害者であるのに、その三人がいがみ合うこと。

『もののけ姫』のテーマは、環境破壊の末に訪れる地球環境の危機にも気づかず、弱者を競わせ争わせ富を得る、地球上でまだ続く紛争経由の貨幣経済の力。



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