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梨奈という娘 ~ニ

真梨恵は皿を洗いながら最近の娘の様子を気にかけていた

あの娘、どうしちゃったんだろ

もともと神経質な質ではあった
けれど最近の、おどおどしたような…なにか野良猫のような用心深さを感じさせる態度は見たことがない
喜来町に越してからひと月、まさかクラスで苛めにでもあっているのだろうか?

水を出しっぱなしにしていたことに気付き、クッと蛇口を捻った

私たち夫婦が新居に浮かれてて、相談できなかったのかもしれない

夕飯の時のふと見せる物言いたげな目つき
学校から時おり、追われているかのように玄関に飛び込んで帰ってくるさま
リビングで宿題をやっているさなか、固く唇を結んで庭を睨む様子…

今日帰ったら聞かなきゃ

真梨恵は罪悪感とともに決意した
子供にとっての引っ越しを甘く考えていたのかも
9歳にもなれば、好きな男子が居たのかもしれないし、親友と離れて辛いに違いない
梨奈はなんでもそつなくこなす子供だったから、引っ越しても上手くやると高を括ってしまったのかも

新しく買ったダイニングテーブルに腰掛け、ケトルから急須にお湯を注ぐ

そういえば、変な癖が出来たんだよね……

ふと、時計を見上げる
3時になればいつものように帰ってくる娘
だが、ここに越してから前にはない不思議な行動がルーティンと化していた

夕方の6時まで、梨奈は必ずリビングにいる
宿題をやったり、テレビを見たりするのは別に不思議じゃない

だが6時になると必ずふっと立ち上がり玄関に向かうのだ
チャイムが鳴ったわけでもない
ただ、玄関に向かう
そして一旦玄関から出て、しばらくすると戻ってくる

はじめは気にしていなかったが、毎日となると不思議だった
もちろん聞いたことはある
だが、梨奈は困ったように目を逸らすと

友達と約束してるから

といった
意味がわからないながら、問い詰めるようなことでもない……と流していたのだが

もしかすると苛めと関係してるんじゃ?

どう関連してるかはわからない
が、最近の娘の挙動に気づいてしまった以上見過ごすことは不可能だ

由太郎にも相談しようか?
いや、先に梨奈と話したい

もうすぐ帰ってくるだろう

真梨恵は両の指を組ませ、額を乗せた
肩までのばした髪が、さらさらと流れる

越してきて気を張っているのは、なにも娘ばかりじゃない
馴染んでいたご近所付き合いもはじめからだし、スーパーも銀行も学校も当たり前だが前とは違う
確かに横浜や東京とは違い、呑気でおおらかな雰囲気があるとはいえやはり気が抜けないのだ

そろそろパートも探さなきゃね

そうなれば今より梨奈を一人きりにする時間が増える
そうなる前に、心配の目は摘まなきゃならない

今日のおやつはエンゼルパイにしよう

菓子盆にふたつ、エンゼルパイを入れる
梨奈の空のマグカップを隣に置いて、帰りをただ、待った


ただいま

梨奈が慌てたように玄関から走り込んできた
息が荒い
大分まえから走っていたのか

ねえ、梨奈
どうしていつも走って帰るの?

母親の問いに、梨奈は別に……と言葉を濁し、傷の余りないランドセルをソファに放った

お母さんね、梨奈にちょっと聞きたいことがあるのよ

余り説教臭さを感じさせないよう、おやつを進めながらダイニングチェアに座るよう促した
梨奈は怪訝な顔をしながらも素直に着席し、真梨恵が茶を注ぐのを待つ

あなた、なにか……悩みごととかあるんじゃないの?

エンゼルパイの袋を切ろうとしていた梨奈の手が止まった

あるよ

簡潔な返事
やっぱり、と真梨恵は頷き梨奈の正面に座る

そうよね、ここのとこおかしいもの
あなた……学校で苛められたりしてるんじゃないの?

心底意外そうな娘の瞳とかち合い、真梨恵の方がどぎまぎしてしまう

そんなんじゃないよ
学校は…楽しい
友達も出来たし、みんな優しいよ
でも…

でも?
目だけで問う真梨恵に

お母さんにはわからないことだもん

注ぎたてのマグカップ
吹き上がる湯気を美容目的のように顔中に浴びる梨奈

お母さんはあんたのどんな悩みでも聞きたいし、解決してあげたいよ

真摯な声に、梨奈は怖々顔をあげ……おもむろに左目から涙が溢れた

がたっと椅子から立ち上がり、静かに泣く娘の頭を自分の胸に押し抱く

梨奈は溺れ行く人のように、強く母親にしがみつき声を殺して泣きはじめた

そして
静かに、しかしハッキリと話し始める

それは、とても信じられる話ではない
だが真梨恵は信じた
一片の疑い無く娘の告白を受け入れた

理屈ではない恐怖が
黄昏の光となって母子を包んでいた




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