「小説 名娼明月」 第63話:不思議の宿

 お秋は、隙があったら逃げ出そうとしているを、この家の主人(あるじ)はそれと認めて声も優しく、

 「決してご遠慮にも、ご心労にも及びませぬ。必ずよきように頼んで進ぜましょう」

 と云って先に立って行く。お秋はそれでも安心はせぬ。どうかして逃げていこうとは思ったが、無理に逃げるところを、また押さえられでもした日には、どういう恐ろしい目に逢わされるとも限らぬ。

 「よし、どうするつもりか、躡(つ)いて行ってみよう」

 と、度胸を据えて、その男に躡(つ)いてゆけば、暫くにして、パッと明るい町へ出た。非常に繁華な町である。両側に軒を並べた大きい構えの家は、皆揃って戸口に屋号入りの行灯を掛け連ねている。隣りから隣り、向えから向えと、出たり入ったりする男がおるようである。お秋は、初めて来た町の繁華に、驚いて目を瞠(みは)っていると、男が後振り向いて、お秋に声をかけた。

 「ここは博多の宿屋町である。少し身分のある人は、皆この町に泊まるが常である。私があなたをお世話いたす家も、同じ宿屋の一軒であって、すなわち、向こうに見える行灯が、それである」

 と言って、指差してみせた。
 お秋は何気なく指差される家を見てみると、たくさんの家の連なっているなかで、一層大きい構えであって、『薩摩屋』と書いた行灯が掛けてある。
 男はお秋を連れて薩摩屋の中に入り、そこに居合わす人々に対して、至って馴れなれしい挨拶を交わして、内庭から裏座敷の六畳へ通り、まずお秋に、足を濯(すす)がして、その部屋に休息させ、

 「自分はちょっと、ここの主人に、あなたのことを頼んでくるから、しばらくうち緩(くつろ)いで待ちたまえ」

 と言い捨てて立去った。

 お秋は一人取り残されたる手持ち無沙汰に、徒然(つくなん)となって四辺(あたり)を見廻してみた。庭は頗(すこぶ)る広くて綺麗である。常盤木(ときわぎ)の茂っている蔭に山茶花(さざんか)の咲き匂うている模様など、どうしても普通の家とは違う。これまで随分いろいろの宿屋にも泊ったが、こんな宿屋は一度もなかった、と思いながら耳を澄ますと、二階からは賑やかな管弦の音が聞こえてきた。
 それから半時間ばかり経つと、あの男が入ってきた。しかも男一人ではない。五十前後の色の黒い女を一人連れて入ってきた。額の広い、目の釣った、いかにも邪慳(じゃけん)らしい女である。
 この女は、来るとすぐに、仔細らしくお秋を見て、

 「歳はおいくつか?」

 と尋ねる。
 お秋は実に不審で堪らぬ。
 慈悲ある人が旅の自分を憐れんで泊めてくれるのに、何で自分の歳を真っ先に訊かねばならぬであろうか?
 と不審の目を瞠(みは)って女の顔から姿に見入っていると、女は重ねて、しかも語気荒く、

 「歳はいくつか?」

 と尋ねる。
 隠すほどのこともないからと思って、お秋は自分の歳を答えると、今度は名を訊く。幼少から習い覚えた遊芸のことを訊く。その他さまざまに入組んだることを尋ねる。
 お秋は、いちいち問わるるままに返事はしたが、この女と男を交わる交わる見比べていると、薄気味悪くて堪らぬようになった。
 
 「ここは一体、どういう宿でありますか?」

 と思い切って問いかけると、男はそれには答えず、

 「しばらく待ちたまえ」

 と言い捨てて、どこかへ立った。

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