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なんでもいい

 風や波はどこから生まれるのかとか、どうして空の色はみる時間によってこんなにも変わるのかとか、そういうことが問いとして浮かぶことがある。
 友だちと話しているときに、「どうして痣ってあとからできるんだろう」とつぶやいたら、少し笑って「君のそういう、科学にも立ち向かおうとする感じがいいよね。別に科学的な答えが欲しいわけじゃないんでしょ?」と返されたのがうれしかった。私のつぶやきの本意を汲み取ってくれた気がしたからだ。そう、確かに科学的な答えを求めて問うてるわけじゃない。

 哲学者や哲学史を専門的に研究したことはなく、"哲学的命題"というものがよく分からないまま哲学をしている。だから、何でも問いになってしまう。「大人になるってどういうことだろう」はザワザワからくる問い。「どうして何にでも意味を求めるのだろう」はモヤモヤからくる問い。「何のために生きるのか、なぜ生まれてきたのか」は虚無感から生まれる問いだ。では「どうして花はこんなにも鮮やかな色をしているのだろう」は何から生まれる問いだろう。

 哲学は驚きからはじまる、といつか誰かから教えてもらったのを思い出す。何年か前に"時間"についてどこまでも考えようとしていたとき、私は「未来は存在しないのかもしれない」という大発見をした。私にとってのこの大発見を一緒に驚いてくれる人もいたけど、ある人に話すと「うん、未来は思った通りにならないこともあるのは当たり前じゃない?」と私の驚きを不思議がるような反応をされた。そうだけど、そうじゃない。未来への予想は外れることがあるということは、確かにある時から知っていた。思った通りにならないだけでなく、そもそも存在していないのだということ。存在していないのに、とても重要な概念として誰もが認識しているということ。存在しないものに、いまここの私が振り回されているというその愚かさが大発見だったのだ。当たり前にそこにあるものの、当たり前さに時にとても新鮮な驚きを抱くことがある。科学的な答えが差し出されてしまいそうな問いが哲学的な問いと並んで生まれるのも、この新鮮な驚きからなのかもしれない。

 科学的な答えを求めてるわけじゃないと書いたけど、科学的な説明もそれはそれで興味深い。そういうことへの知的好奇心から、理系の友だちに相対性理論についての解説をお願いしたこともあった。だけど科学的な説明の面白さと私の驚きは別ものであるみたいなのだ。小学生のころに宇宙の果てについて大人に質問をしたとき、時空についてとても詳しく説明をしてくれた先生がいた。知らなかったことを知ることができてワクワクしたけど、問いは解消されずいまだに宇宙は不思議なままだ。仕組みが分かればよいというわけでもないのだろう。
 問いには、答えが必要なのだろうか。問いについて考えるとき、私は考えるという営みのなかで答えを見つけようとはしていない。ただ問いに対して思うことや感覚を言葉を用いてなぞるだけ。だから不思議なことはますます不思議に、分からないことはますます分からなくなる。
 問いが増えるたびに世界が神秘のベールで包まれていくことが、哲学のひとつの楽しみにもなっている。だけど一方で切実な問いであるときほど、「この問いに対するたった一つの真実を誰か教えてくれたらいいのに」と問いが解消されることをどこかで求めてしまっていたりもする。

 なにが言いたいのか分からなくなってしまった。ただ、問いに対する答えが答えにならないこともあるし、答えの出ない問いに答えを求めてしまうこともあるのだということがまた、最近の驚きの一つだったのだ。問いに対してすぐに答えが与えられてしまうことにザワザワして、科学的な問いと哲学的な問いを区別されてしまったことにモヤモヤしたのだ。
 私は私の見えるものしか見えない。私は私が気がついたことしか気づけない。世界は広くて多くて深いから、科学とか哲学とか関係なく何もかもが不思議でどこまでも神秘的だ。
 神秘的という言葉が好きだ。哲学をしていると虚しくなったり(虚しいから哲学をしているのかもしれないけど)、もどかしくなったり(もどかしいから哲学をしているのかもしれないけど)、絶望したり(絶望するから哲学をしているのかもしれないけど)する。だけどそれらの分からなさ全てが神秘的な側面を持ち合わせている気がして、そのことに気がついたときには秘密だらけの世界に圧倒されて呑み込まれてしまっても構わないなと思えるのだ。

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