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哲学ってなんだ

 いつの間にか哲学をすることをはじめていて、それからしばらくつづけている。哲学という言葉があることを知ったから「哲学をしている」と言っているけど、「哲学をする」が何なのかをちゃんと説明できたことはない。
 哲学をしているし、「哲学をしている」と言っているから、周りの人からはよく「哲学が好きなんでしょ?」と聞かれる。だけど哲学が好きなのかどうかも、本当は自分でもあまり分からない。哲学をしていると楽しい気持ちになることが多いけど、楽しいから哲学をしているというわけではない。たしかに哲学は楽しくもあるけど、趣味とかよりももう少し深刻で、なぜなら哲学は私自身の存在や人生そのものを揺れ動かしてしまうことがあるからだ。けれども哲学に対して、どうしてもこれがやりたいと思えるほどの強い情熱を持っているわけでもない。例えば哲学の文章を書いて褒められたり、認められたりするとうれしいけど、そのこと自体が目的になっているわけでもない。私はなんとなく、本当にただなんとなく哲学をしている。
 どうして私は哲学をしているのか。私が「哲学をしている」と言うとき、私は一体何をしているのだろうか。

疑う
 10代のとき、友だちが「懐疑主義」という言葉を教えてくれた。「上手く説明できないけど、とにかく全部を疑うんだよ。何もかも本当じゃないかもしれないんだから。」とその人は言った。"懐疑主義"のキーワードでGoogle検索をしていたら、あるサイトで「トゥルーマン・ショー」という映画が紹介されていたので、後日買って観た。疑いもせず信じていたことの全てがそうではなかったと気付いたときの絶望感を痛いくらいに表しているシーンがあって、とても印象に残っている。
 「トゥルーマン・ショー」を観たり、「世界は存在していないかもしれないんだよ」と真剣に言う友だちの話を聞いたりするうちに、私は私が本当は何も知らないのだと言うことにだんだんと気がつくようになった。教えてもらったことや自分の中にある感覚を信じていただけで、実はそれが本当のことかは分からないし、分かり得ない。本当は本当かどうか分からないものを見つけるたびに、世界の輪郭がぐにゃりと溶けていくようで不思議だった。

問う
 大学で哲学対話に出会って、3年生になるときには哲学をするゼミを選んだ(哲学の研究ではない。自分で哲学をする)。哲学対話はいつも、問いを出すことからはじまった。卒論を書くときに先生は、「問いを決めるのに長い時間をかけてください」と言った。
 問いを出すとき私は、心に耳を澄ませてこれまで違和感を覚えたこと、モヤモヤしたこと、不思議に思った瞬間を思い出す。それから、それを外側に出すための言葉を探す。生活をしていると、小さなモヤモヤは時間やこなさなければいけないたくさんのことたちに簡単に埋もれてしまう。見て見ぬふりをしてきたそれらに気がつくためには、立ち止まることが必要なのだと思う。問いを探すとき大抵みんなは沈黙していて、その間はまるで時間が止まっているようでとても静かだ。

対話する
 哲学対話の場は、居心地が良い。ゼミの哲学対話で先生は、「何も話さなくてもいい(聞いているだけでもいい)」と言っていて、このルールは私の心を良い意味で脱力させた。脱力した心で対話をするとき、考えることと話すことは同時に起こる。話しながら考えているし、考えながら話している。哲学対話では、面談とかディベートとか話し合いの場と違って、説得力のあることや立派な意見は求められていない。それよりも、出来るだけ考えていることを素直に話す方が良い(と思う)。だからそこにいる他の人たちに向かって話しながら、私は同時に私と話している感覚にもなる。伝わることよりも自分の感覚に近い言葉を選ぶことがまず大事で、知ろうとしてくれる私以外の人からの質問によって少しずつ形になっていく。
 哲学対話では、その場にいるみんなで一つの問いに沈んでいくことや、違う感覚を持つ人の話を聞くことに面白みを感じている人が多いと思う。だけど私はそれ以上に、哲学対話の中で自分の考えや感覚を外側に取り出すことに深淵さを感じる。私の言葉を受け止めてくれる誰かが外にいる状態で話すことで、私も見えていなかった奥の奥にある何かを掘り起こすことが出来る気がする。

考える
 モヤモヤに耳を澄ませることに慣れた私は、割といつも頭のなかがグルグルしている。歩いているときとか、寝る前とかはグルグルの回転が少し早くなる。グルグルをつづけていると、たまに閃いたように頭の中で思考が言葉に当てはまることがある。そういったものは消えてなくならないうちにメモに残しておいて、あとから取り出してじっくり考えたりする。哲学者の友だちとかに見せて、一緒に考えてもらうこともある。哲学に深めに足を踏み入れてしまった以上、考えなくなることは多分ないと思う。

書く

 ゼミで哲学エッセイを書いたことがきっかけで、少しずつ文章を書くようになった。それまで作文等で特別に褒められた記憶はなかったけど、なぜか哲学エッセイだと信頼している大人たちから「いいね」と言ってもらえることがあった。哲学対話の場での話す言葉ではなく、書く言葉としての表現方法を手に入れることが出来たのは素直にうれしい。課題の哲学エッセイや卒論を本当に自由に書かせてもらえたことが、おそらく書くことが好きなったきっかけだと思う。アカデミックな型を無視した構成や幼い文章表現に赤を入れることなく、そのままの私の文章を受け入れてくれた先生のおかげだ。
 書くことは好きだけど、それを大学を卒業したあとにもつづけている理由は、書いたものを誰かに読んでもらいと思うからだ。読んでもらいたいと思うのは、認めてもらいたいからだ。なぜ認めてもらいたいかというと、認めてもらえれば堂々と哲学ができるような気がするからだ。
 哲学は本当に意味がない。でも意味がなくてもいいと思っている。むしろ意味がなくあってほしい。だけど意味のないことばかりしているのは、やっぱりちょっと後ろめたい。周りの目を気にしてしまう。頭の中で思考を巡らせることや対話をすることも哲学だと思っているけど、これらは形に残らないから認めてもらいづらい。考えごとをしてるだけ、お話をしているだけだと思われてしまいそうだ。本当はもっと壮大なことをしているのに。だから形として残る「書くこと」をつづけることで、何となくちゃんと哲学をしている気になれる気がする。哲学を書くことをつづけて認められると、ちっちゃいことを気にしいな私の心が楽になるからいいなと思う。書いたものを褒めらてもらえれば、それはそれでうれしい。

哲学者
 哲学者の友だちからよく、「哲学者って言わないでほしい」と言われる。確かにその人はいつも考えごとをしているだけで、哲学をきちんと学んでいるわけでもなければ(興味のある哲学者については調べたりしているらしい)それこそまとまった文章を書いたりしているわけでもない。その人のことを哲学者と呼んでいるのは、おそらく私だけだ。でも本当にかなり、哲学者だと思っている。
 その人が哲学者の肩書きを与えられることに拒否感を示す気持ちも、実は少し分かる。私も哲学の場でのプロフィールを考えるときに、「哲学者です」とは言わない。それはどうしてかというと、哲学者という肩書きに、社会における立場が付随している気がしてしまうからだ。ちゃんと哲学をしていなければ、哲学者と名乗るのは烏滸がましい気持ちがしてしまう。こんなに簡単に哲学者を自称したら哲学を生業にして、研究をしている人から怒られるかもしれない。そもそも自称するものでもないような気もする。
 だから哲学者以外の言い方がないかと考えてみたりもしたが、しっくり言葉はなさそうだった。私は今のところ「哲学をしている」と言っている。哲学が何かも分かっていないのに。ちなみに友たちは、「考えることが好き」が良いらしい。

哲学ってなんだ
 哲学が何かは分からない。これは考えはじめた時点で薄々気がついていたことだ。だけど上で述べたことが、私が「哲学をしている」と言うときにしていることのいくつかだ。
 なぜ「哲学ってなんだ」という問いが、私にとって大きなものなのか。それは、哲学という言葉がいつも大袈裟に捉えられてしまうからだ。「〜とは」と一言発するだけで、みんなは関心に近いにため息をついて「おぉ、哲学だね」と言う。哲学とは何かをみんな感覚的に知っていそうで、実は全然知らない。身近にあるようで、全然現実的ではない。分からないのに、私は哲学をしている。哲学ってなんだ。
 確かなのは、私は意味も目的も理由もなく哲学をしているということだ。ただ何となく哲学をしている。本当にそれだけなんだ。

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