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はじまりのおわり、おわりによるはじまり

 楽しみにしている予定に切なさを覚えるようになったのはいつからだっただろう。その切なさの正体を言語化出来るようになったのは、おそらく中学生のおわりくらいからだった。毎日顔を合わせていたクラスメイトと、卒業をしたらもう二度と会えなくなってしまうかもしれない。おわりの存在に気がついたその時期から、うれしいことや楽しいことはさみしい気持ちと結びつくようになった。友だちとの約束も、お出かけの予定も、学校の行事も全て、はじまる前から楽しみで楽しくてでもたまらなくさみしかった。
 おわりの切なさは今でも度々感じることがある。私はこれまで、数々のおわりを通り過ぎて生きてきた。いくつかのおわりの経験を通して、これから先に無数のおわりが待ち伏せしていることも知っている。おわりはさみしくて悲しくて、少し心細い。おわりを悲観的に捉えてしまうのは、おわることが自分にとって心地の良い誰かや何かの存在との別れと結びつけられるからだ。時間をかけて馴染んだあれこれを、おわることによって手放さなくてはならない。おわりたくない、おわってほしくないと心の中でだだをこねることもある。だけど時の流れを止めることができない限り、何事にも必ずおわりはやってくるらしい。

 ついおわることやはじまることのそれぞれのみに目を向けてしまうが、おわりとはじまりは常に背中合わせの存在であるのだと思う。おわりとはじまりはいつも繋がっている。はじまりには必ずおわりがあり、おわりにもおわりがあってその先には必ずはじまりが待っている。私たちは生きている限り、おわりとはじまりの繰り返しのなかから抜け出すことはできない。はじまりの中にいるか、おわりの瞬間にいるかそのどちらかなのだ。

 私はおわりに、おわりによるさみしさや悲しみに恐れを抱くことが多いが、世の中は案外おわりを前向きに捉えているのかもしれないと思うこともある。なぜなら、私がこれまで経験してきたいくつかのおわりは誰かによってあらかじめ設定されていたものであったからだ。例えば日本では、12つの月を過ごすと一つの年度がおわることになっている。そして小学校では6年間、中学校では3年間経つと大きなおわりを迎えることになる。大きなおわりはときに祝福の対象にもなる。卒業式というセレモニーでおわることを大切にお祝いされる。
 おわることは悲しいことであるはずなのにそれでも自ら終わらせることがあるのは、人がおわりのなかにはじまることへの希望を見出しているからなのかもしれない。確かにはじまりという言葉には、おわりと比べてももう少し明るく前向きなイメージがある。おわりへの祝福にはおわりそのものに対する労い以上に、おわりによるはじまりへの期待が込められているのだと思う。はじめるためには、何かをおわらせなければならない。
 私ははじまりに対してすら緊張や不安などのネガティブなイメージを持つことがあるので、それでも何もおわらずに出来るだけ長くはじまりが少し進んだあたりに留まっていたいと願ってしまう。だけど多くの人はおわりがはじまりにつながっていることを了解していて、だから数々のおわりを果敢に通り抜けることができるのだろう。

 「かないくん」(作:谷川俊太郎・絵:松本大洋)という絵本がある。谷川俊太郎はこの絵本の中で、小学生のころに亡くなった彼の同級生について書いた。
 数え切りないほどのはじまりとおわりの波にもみくちゃにされながら私は生きている。その中でも最も大きなはじまりとおわりは、私自身のはじまりとおわり、つまり生まれることと死ぬことであるということにも本当は気が付いていた。大きなはじまりのなか、大きなおわりに向かって私は歩いている。死ぬことは一番最後の終わりだと思っていた。だけどおわりの後には必ずはじまりはあるはずで、だからもしかしたら死のあとにはじまる何かもあるのかもしれない。はじまりの中にいる限りは、おわりのあとにはじまる何かを知ることができないだけで。「かないくん」を読んで、そんなことを少しだけ考えた。

 「Ballet Mécanique」という坂本龍一の曲の最後のフレーズを聴いたときにも、わたしのはじまりとおわりについてまた少し考えることになった。

“ボクニワ ハジメト オワリガ アルンダ
コオシテ ナガイ アイダ ソラヲ ミテル
オンガク イツマデモツヅク オンガク
オドッテ イル ボクヲ キミハ ミテイル”

坂本龍一「Ballet Mécanique」

 物事には必ずおわりがきて、そしてはじまる。おわるときには全てを手放し失うことになると感じていた。だけど確かにおわりとはじまりの間を繋げるように、突き通って続いていく何かもあるいは存在するのかもしれない。それはおわりとはじまりの外側にいないと分からないことだ。

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