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後悔

 選ぶことには覚悟がいるし、諦めることには気力を使う。選んだことが正しかったのか、その答え合わせはいつなされるのだろうか。

 お兄ちゃんから「捨てようと思っているテレビがあるけどいる?」と連絡があった。「もう持ってるから大丈夫」と返事をしたら、「サイズ大きいけどいらない?」と念押しをされて、迷ってしまった。電気屋さんから「ウォーターサーバーの機械をサービスで設置してもいいですよね?」と電話が来た。「じゃあお願いします」と返したあと、信頼してる人にそのことを報告をしたら「それちょっと怪しいかもよ」と言われて困ってしまった。どちらの提案も断れば、やっぱりもらっておけばよかったかな、と思ったかもしれないし、受け入れれば、やっぱりこんな大きなものもらって大変だったな、と思ってたかもしれない。即決ができるような大きくて明確な理由を持ち合わせていないことに対する選択は、どれを選んだって大抵小さな後悔が残る。
 環境の変化があって、特にこの2ヶ月くらいは小さなものから大きなものまでいくつもの選択をする必要があった。選択肢の中からたった一つを選ぶ決断をすること。このことがどれだけ簡単ではないのか、私はすっかり忘れていた。一つ一つの選択に対して長い時間をかけて迷って、覚悟を決めて選んで、そしてちょっと後悔して。そういうことを何度も繰り返していると、少しずつ気持ちが疲弊していく。
 「なんでもいいよ」とか「どっちでもいいよ」は楽だけどあまり言わない方がいいらしい。これは他の人に、選択することによる疲弊を負わせてしまうことになるからだ。誰かが決断をしない限り、ものごとは進んでいかない。

 いつか「大きな決断をしたことが、自分が大人なのだと自覚するきっかけだった」と話す人がいた。私が、自分が大人だと自覚したのはいつからか、と質問をしたからだ。その人は、同年代の人たちが一般的に歩んでいく道とは違う生き方を選び、自分で選んだその道に大きな責任を感じるようになったのだという。たしかに、「自分で決めたことには責任を持つべき」だという考えは、大人からよく教えられることの一つのように思う。
 何かを選択、決断することに対する「責任」とはいったい何なのだろう。どのような態度であれば、決めたことに対しての「責任を持っている」ということが出来るのだろうか。

 何かを決断したその先に想定していた未来が待ち受けていなかったとき、そのことに納得できずに不満を言ったり、誰かのせいにしてしまったりする子どもがいると、大人はよく「自分で選んだことなのだから責任を持ちなさい」と諭す。
 とするならば、選択したことの「責任を持つ」というのは、思ったとおりにならなくても文句を言わず受け入れること、すなわち、選択した先に望んでいた結果を諦めるということになるだろうか。うまくいかなくても取り乱すことなく、本当の思いをグッと飲み込み「諦める」ことのできる人は、たしかに大人っぽいと思う。
 それとも、もしくは「責任を持つ」ということは「諦めない」ことだとも言えるだろうか。思った通りの未来が待ち受けていなくても、それが結果だと諦めずに、もう少し先の未来に良い結果が待ち受けていることを信じなさい、と言う意味で大人は「選んだことに責任をもちなさい」と言っているのかもしれない。

 後悔、というのは面倒な感情の一つである。文字通り、自分の選択を後から悔やんでしまうことはこれまで何度もあった。後ろを振り返って悔やむなんて、こんなに愚かな感情はできることなら出てこないでほしいけど、"感情"なので意思とは関係なく抱いてしまうのは仕方がない。選ぶ限り、選ばなかった方が生まれてしまうのだから、後悔はどうしたってしてしまう。
 だから余計に、今まだ存在しない未来を何も見えないままで選び、そこに責任を求められてしまうのは、重いのではないかと思うのだ。「責任」という言葉に押しつぶされて身動きが取れなくなってしまう。
 諦めることにより責任を持つにしても、信じつづけることにより責任を持つにしても、その前に後悔という感情を抱いてしまうことをどうか許してほしい。どんな未来が待ち受けているか、分からないまま悩み考え選択を繰り返しているのだから。

 選ぶことの厄介さについて考えたかった。人が一日にどれだけの選択を繰り返しているか、についての研究結果をどこかで聞いたことがある。こんなにも疲れる"選択"という行為を、一日のうちに何万回も繰り返しているなんて人間はすごいと思った。

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