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"大事"の定義が分からない

 "大事(形容動詞としての・だいじ)"という言葉の持つ深淵さについて書きたい。私たちは、生活の中の様々な場面で"大事"という言葉を用いる。私も普段から、多分かなり安易に"大事"を使っていたが、その言葉に対する小さな違和感をはっきりと認識したのはついこの間のことだ。大きなきっかけがあったわけではない。いつものように友だちと何かの問いについて話していたとき、その人が何気なく「〇〇は大事だもんね。」と言った。〇〇の部分が今では思い出せないくらいその時はどうしてだか"大事"という言葉に引っかかり、私は何となくうやむやな返事をしたのだと思う。しばらく会話が進んでいったあと、「さっき、ちょっと変な間があったよね。」と友だちがその違和感に触れてくれた。「〇〇って大事だよね。」としみじみと話す人の表情を私これまで何度も見たことがある。

 果たして、私たちは明確なイメージや定義を持って"大事"という言葉を使うことが出来ているのだろうか。例えばその意味を、"大事"という言葉を使わずに自分なりの表現で定義することは出来るだろうか。
 私のイメージの中にある"大事"を、まとまらない言葉で説明してみる。それは傷つけたくない、傷ついてほしくないもの、長く心に留めておきたいものに対して使う。金庫よりも、宝箱に近い。有名な遊園地のキラキラ輝くイルミネーションよりも、たまたま私が見つけた一番星に近い。客観的にはっきりとした価値はなくとも良いけど、例えば手に掬った水をこぼさないように静かに意識し続けておくみたいに、気持ちを向けておきたいもの。もし、そこに水があることを他の人にも知っていてもらえたり、同じ水を手の中に持っていることを知ったりするとうれしくなる。それくらいに、とても曖昧で個人的な感情を持って"大事"という言葉を使っているかもしれない。

 言葉なんてどれも曖昧なのだとは思うけど、その中でも"大事"は特にふんわりとした言葉なのではないだろうか。はっきりとした定義を定めるのが難しい。
 「本を読むことは意味のあることだ。」「本を読むことは大事なことだ。」の二つの文。"意味"と"大事"は似たような場面で使われることが多いけど、この二つの言葉には確かなニュアンスの違いがある。「本を読むことは意味のあることだ。」は、意味のある理由をはっきり言えると思う。"意味"は未来に向かっている(私の感覚的に)ので、結果的に意味があったかどうかが分かったり、どう意味があるのかの具体例を挙げられたりする。一方で、"大事"はもっと個人的で今ここでやんわりと存在している感覚だ。理由は言えないけど、とにかく大事だから大事なんだと言いたくなるような不確かさがある。

 私がその言葉に違和感を覚えたのはおそらく、それほど曖昧な"大事"を、私たちは重要な場面で使ってしまうことが多いからだと思う。しばらく続いた会話を一言でまとめてしまおうとするときや、何かの文章の結論のような位置付けで"大事"という言葉はよく使われる。
 何かを大事だと言うとき、人はきっと自分なりの確かな根拠を持っているのだと思う。誰かが発する"大事"という言葉の後ろ側には、あたたかな強い光を感じる。だけどたまに、その言葉の隙のなさに呑まれてしまいそうになることがある。

 「大事って言葉を前にすると、多分思考停止しちゃうんだよね。」と、私は友だちに言った。"大事"という言葉には、どうしてだか有無を言わさず納得させられてしまう不思議な強さがある。ただ、その強さは"大事"の向こうがわを見ることをとても難しくする。「〇〇は大事だ。」と言われてしまうと(言ってしまうと)、思考や対話はそこから先へは進みづらい。なぜなら、"大事"はあくまで個人的な感覚なので他の人の"大事"と思う気持ちを否定することが出来ないからだ。どうして大事なのかや、そもそも大事とは何かを考えることはあまりしない。とても個人的で曖昧な意味を持つのに、まるで共通認識であるかのように人をうなづかせてしまう説得力がある。柔らかさと強さが同時に内在している、何とも矛盾に満ちた言葉だ。

 "大事"という言葉の持つその神秘的な側面を、私はとても魅力的に感じる。何かを大事だと思うとき、そのことは私の心をじんわりと温めてくれる。だから、この言葉を批判的に分析したいわけではない。ただ、分からないものを総じるためだけに都合よくその言葉を使ってしまわないようにしたい。私の大事を、無意識に他の誰かに押し付けてしまわないようにしたい。大事を傷つけてほしくない願うように、誰かの大事も傷つけたくない。"大事"という言葉の意味をきちんと考え、何かを感じたその先でその言葉を大事に扱えたらいいなと思う。

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