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「本当の自分」というものは存在するのだろうか。

「本当の自分」と言うものは、存在すると思うし、存在し得ないとも思う。周りの人からみた「私」と言うものは、自分自身が思っているような人格ではないことが多々ある。

「イメージと違う」と言われたことはないだろうか。その人の新たな一面を見つけた、と言う場合、もしくは、「そんな人だとは思わなかった」と言うマイナスな発言の場合。それらに対して、大抵は何らかの感情を抱くだろう。それは、一応の「自分」と言うものが存在しているからではないだろうか。

また、そのように言われる要因として、考えられることがある。原因は「私」にあるからだ。家の中と、家の外の「自分」を考えて欲しい。人に対して遠慮があるかないかだ。私自身もそうであるが、家の中で、家族と話す気分でなければ、いい加減な返事、無言を通すかしてしまう。外ではそうはいかない。気分次第で相手に睨みを利かせることをしていればいつか完全に孤立してしまう。一人でも平気だと言う人もいるだろうが、誰しも無意識に一人になることを避けて行動しているものだ。大勢の人の中で、一人(話相手がいない状態)でいるよりも、誰かと一緒にいる方がいいと思うだろう。安心感があることも一つの理由だが、周りの人からの視線、どんな風に見られているかを気にするからだ。つまりは、集団への帰属意識からも、孤立を避けようと、場に応じた「自分」を演じているのだ。「今この状況では、こうすることが適切だろう。」と思う「自分」は「本当の自分」と見なすことは出来ないだろうか。

私は、大本の「自分」と言うものがあって、臨機応変に「自分」を派生させているのではないかと思う。そうでなければ、この社会で生き抜いて行くことはとても困難なことだ。

太宰治の『人間失格』を思い出す。「自分」と言うものが一律に定まっていないから、「本当」と言う言葉を付けて悩むのだろう。そして、「自分」と言う人間を理解してくれる人間の存在が必要となってくる。しかし、必ずしも悩む必要はない。誹謗中傷とは捉えないで欲しいが、誰しも「道化」を演じて生きている。「本音で語り合いなさい」などと簡単に言わないで欲しいものである。

「本当の自分」が見つかるまでは就職しないなど、人の生き方など自由である。しかしながら、現在の社会構造において、働かずに食べていけるなど考えられない。モラトリアムな期間は、親の庇護下にいる間だ。先述したように、大本の「自分」があって、派生した「自分」が存在するのだから、どれも「本当の自分」だろう。従って、「自分探し」をしている「自分」も「本当の自分」なのだ。

浅い読み取りでしかないが、「自分がない」と思ってとった行動はきっと「恥の多い」ものではないだろう。

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