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2023年【卯年】月の兎の伝説

うさぎ年2024年の足音がすぐそこに
聞こえて区来る今年最後の日曜日です。

【無私・利他・知足の心】

古より月には兎が住むと言います。

→兎は自分を犠牲にしてでも
 人を救おうとする
 美しい心の持ち主だった❣️
災害ボランティアの心を大切に❗️❗️

月の🐰から学ぶ⁉️

<以下、仏教の教えから抜粋>

【月うさぎの伝説】

(出典-暮らしの催事記より転載)

月うさぎ伝説にも諸説ありますが、
一般的なのは次のようなお話です。

『昔、あるところにうさぎ
 きつねさるがおりました。

 ある日、疲れ果てて食べ物を乞う
 老人に出会い、3匹は老人のために
 食べ物を集めます。

 さるは木の実を、
 きつねは魚をとってきましたが、
 うさぎは一生懸命頑張っても何も
 持ってくることができませんでした。

 そこで悩んだうさぎは、
 「私を食べてください」
 といって火の中にとびこみ、
 自分の身を老人に捧げたのです。

 実は、その老人とは、3匹の行いを試そう
 とした帝釈天(タイシャクテン)と言う神様。

 帝釈天は、そんなうさぎを哀れみ、
 月の中に甦らせて、皆の手本にしたのです。』

これは、仏教説話からきているお話です。

また、このお話には続きがあり、
『うさぎを憐れんだ老人が、
 その焼けた皮を剥いで月に映し、
 皮を剥がれたうさぎは生き返る』
という説もあります。

 だから、月の白い部分ではなく、
 黒い部分がうさぎなのです。

では、なぜ餅をついているのでしょうか?
「うさぎが老人のために
 餅つきをしている」とか
「うさぎが食べ物に困らないように」
という説がありますが、

中秋の名月
豊穣祝いであることを考えると
沢山のお米が照れたことに心から
感謝する意が込められているようです。

(以上転載終わり)

この壮絶な話は何を伝えよう
としているのでしょうか?

色々と解釈はあるでしょうが、
私達は、普段生活している時、
何でも狐や猿のように他から探して
持って来ようとしていないでしょうか❓

あれがない、これがないと自分の外に
理由を求めていないでしょうか❓

自分の幸福はどこにあるのか、
と外ばかり探してはいないでしょうか❓

は、
それがどこを探しても無かった為に、
自分の身に既に具わっていること
気付いたことを意味しているのです。

気付いた兎はもう慌てることはありません。
だから手ぶらで跳ねて遊んでいたのです。
<以上抜粋終わり>

自分と向き合い
足りるを知りて我が身を捨てる「兎」の心、
このウサギ行動には
無私・奉仕・利他・知足・
至誠・勤労・分度・推譲
と言った様々なの教えがあると思います。

二宮尊徳の教え

二宮尊徳

※印は尊徳の教え
(以下学びのメモより転載)
📖至誠
誠は、新撰組の旗で有名ですが、
誠の道とは世を救い、
世を益することをいいます。

それは個人として、
理屈を捏ねることなく、
誠を尽くし実行する所にあります。

孔子の孫である子思は『中庸』
という本の中で孔子の教え
としてこの言葉を書いています。

誠は自ら成るなり。
而(しか)して道は自ら道びくなり。
誠は物の終始、誠ならざれば物無し。
【意味】
誠はそれ自身、ほかの物の力を
借りなくても自ら成就するものである。

人の道もまた同じ。

万物はみな、誠の道によって生まれ、
滅び、始まり、終わるものである。

誠の道を外れたならば存在する意味がない。
至誠というのは、この誠
(自然によって定められた誰もが歩むべき真実の道)
の究極の姿です。

また子思は
「至誠は広くて深く、また高くて明るく、
 はるかな未来にわたって限りないものである。
 天と同じように、意識的に動かそう
 としなくても相手を動かし、
 意識的に働きかけなくても
 物事を成就する力がある」
と言っています。

📖勤労
二宮尊徳は
天道・人道と言うことを考えています。

天道とは春夏秋冬、夜昼、晴天・
雨天等、自然の現象を指します。

植物は土によって発芽し
日光と水の力で生育します。
そして、この植物を動物が
食べ物とし生きてゆきます。
こうした循環が天道です。

人道とは、この自然循環の中で、
人類は種である米、栄養を貯蔵した
大根など、人間の役に立つものを
より分け、水、肥料を与え、
雑草を除去し、防除し、
収穫を多く得ようとしまが、
このように人が手を加え自分達の
利益のために行うことを言います。

人道は、
人間の意志がなければ行われません。
この意志を継続して保持し
行為していくことが勤労です。

📖分度
二宮尊徳は、
農村の復興を計画する時その農村の
生産量を過去に遡って調査しています。

そして、
その地域の生産量を数値で把握し、
この現状認識から、生産者、
領主の取り分を契約しています。

個人についても、夫々の分限を守り、
相応の生活をするということで、
収支のバランスをとった生活を勧めています。

こうした数値で支出を
定めることを分度と言っています。
まず至誠と勤労を以って収入を増やし、
これに見合った支出をするという順番で、
計画の策定を重視しているところが、
近代の経営を思わせるところです。

📖推譲
分度を確立した上で、
それ以上の収入があれば余剰が出ます。

この余剰の一部を将来のために
譲ることを推譲といいます。

自分の子孫のために譲ることは
比較的容易ですが他人の為に譲る
ことは中々難しいことですが、二
宮尊徳は、これを推進しました。

そうしたことが出来る為には、
心の田「心田」の開発が必要と唱え
尊徳の周辺にはこうした「心田」
を備える人物が多く育ちました。

そしてこうした推譲金を灌漑事業、
に充てた結果、干ばつ・洪水の心配も
なくなり自己の作物の収穫量も増え村や
社会が豊かになって自分に還元される
と言う成功サイクルが実現していきました。

その後、尊徳の継承者たちは、
尊徳の思想を報徳運動として
実践し、広めていきました。

今も各地にあるこの報徳運動は、
尊徳の教えが現代まで続いている
実際の活動であると言えます。

📖報徳の教え
報徳の教えとは、
二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教
などと、農業の実践から編み出した、
豊かに生きるための知恵である。

神仏儒を究極的には一つに至る
異なる道に過ぎないと位置づけ、
神仏儒それぞれの概念を自由に
組み合わせて説かれている。

そのため報徳の教えを報徳教と呼ぶことが
あってもそれは宗教を意味するものではない。

報徳の教えの中心的概念は大極である。
この大極にそった実践を行うと
言うことが報徳教の根幹をなす。
(以上学びのメモより転載)

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