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「わからない」がわかったその時に

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

「“学び”って言葉、色んな人が色んなところで使っているのを聞きますけど、人によって“学び”の意味って全然違っていますよね」

先日、仲間と一緒に“学び”について話していた時に冒頭のような言葉がをふと口をついて出てきました。

そのきっかけは、ここ最近“学び”という言葉を色んな人から聞く機会が多くなってきたのを感じていた僕が、「なんか、“学び”って言葉を聞く度に全然違うことを指して話しがされているように感じるんだよなぁ」と思っていたことからでした。

例えば、Aさんの話してくれている“学び”と、Bさんの話してくれている“学び”とで、指しているモノも向かっていこうとするところも全然違う感じがしたり、そもそも「何についての話なのか?」ということが全く違っていたりして、「あれ?もしかして、AさんとBさんの話している内容は全然違うモノについての話しだったのか」としばらくしてから気が付くなんてことがよくありました。

そんな“学び”についてを考えてみると、そもそも、幾つかの段階があるような気がするんです。

まず最初の段階が「知らなかったことを知る」という段階。
これはまさにそのままのことなので、“新しい情報を知る”とか“新しい知識を得る”とかのことです。

その次の段階が「知ったことを使ってみる」段階です。
“新しく知った物事”を、とりあえずそのまま自分でもやってみようとしたり、自分でもやってみます。

更に次の段階が「知った“新しいこと”を、抽象化して構造を抜き取る」段階です。
例えば、“新しく知った物事”がそっくりそのまま自分でも行動として再現できることであればいいですが、そのままだと無理な場合には、一度“新しく知った物事=個別の具体的な物事”を抽象化して、その“新しい物事の構造”を抽出して、その構造を自分の環境・状況で実際に使ってみようとすることです。

その次は、「構造を使ってみる・行動にうつす」という段階になるでしょう。

そうして、「行動してみた結果を振り返る・フィードバックをもらう」のがその次の段階な気がしています。

こんな感じで、“学び”って幾つかの段階に別れているような気がしているんですが、ウチが手がける組織開発ではほとんどが最後のフィードバックまでを必ずやりますし、もっと言えば、この学びの段階はずっと円環しているようなイメージで捉えていて、これをグルグル回しながら組織開発を進めていくようなイメージです。
なので、僕たちはこの一連の流れをらせん状に円環させながら前に進んでいくイメージを持って“学び”という言葉を使っているってことに気が付きました。

ただ、こんなイメージで“学び”という言葉を使うようになったのは、恐らく今の仕事をする少し前くらいからのことだったような気がしているので、それより以前は、一番最初の段階の「知らなかったことを知る」という状態を“学び”と言っていましたし、その“学び”以上のことがあるなんて、それこそ知りもしないし、想像したことすらもありませんでしたし、実感するような体験をしたことすらもありませんでした。

だからこそ、“学び”についての解像度が(今の自分達が考えているところの)最初の段階で留まっていたわけです。

そんな自分達の“学び”という概念が更新したのは、当たり前の話しではありますが、“学び”について「知らなかったことを知る」をして、「知ったことを使ってみる」をして、「抽象化して構造化をする」をして、
「構造を使って」みて、「振り返り、フィードバックをする」ことで、今考えているような“学び”の段階について考えるようになりました。

「そんな変遷を経て今ここまでやってきていた」なんてことに思いを馳せることもできずに、「なんで“学び”という言葉がこんなに飛び交っているのに、“学び”の概念が人によって全然違うんだろう?」という疑問を持つに至っていました。

自分達の中で知らないうちに起きていた「“学び”の概念の更新」に気付いていなかったつい最近までは、前述の疑問を持つことすらもしていませんでした。

だけど、この疑問を持つことができたことによって、そこから自分達の持つ「“学び”の概念とはどういうものなのか?」を考えることに繋がって、それを考えることによって自分達の中の「“学び”の概念の変遷」について思い返しながら紐解いていくことに繋がりました。

そうやって考えてみると、「そもそも」で湧いてきた“問い”によって“考える”が進んできたのは間違いありません。

「なぜ、こんなに“学び”という言葉の意味が使う人によって違うのか?」という“問い”から始まってきたわけです。

となると、やっぱり大事なことは「自分と他者との異なる部分=違い(差異)」というモノが“考える”ということをする時にとっても大事になっているんでしょう。

「自分と他者との異なる部分」というのは、いわゆる「うんうん、わかるわー」とか「わかる~」というような“共感”や“同感”や“同調”というものではありません。

これは、文字通り「自分には、わからない」というところからしか生まれてこないわけです。

そして、「自分には、わからない」ということを自分自身で明確に認識することができて、「それがわからない自分」というものを受け入れることができさえすれば、そこから「わかる誰かと、わからない自分との違い」について考えることを始めることができるじゃないかと思うんです。

でも、その昔の僕自身がついやってしまいがちだったんですが、「自分には、わからない」となった瞬間に、「わからない存在=遠ざけるべき存在・排斥すべき存在」という変換をしてしまっていました。
その当時は、“そう考える自分”が途轍もなく“当たり前”だったので本当に何も考えずに、「俺とアイツは違うんだ」と“対立構造”みたいな捉え方をしてしまっていましたが、今から考えてみると「自分には、わからない=途轍もなく怖くて不安なこと」だと考えていたことが理解できるようになってきました。

そうして、「わからない=不安と恐怖」という思考停止に陥ってしまっていたからこそ、勝手に“対立するモノ”として捉えてしまい、どんどん自分で自分が生きづらい状態になるように仕向けてしまっていたわけです。
だけど、ある時期から「わからないモノは、わからないままでいい」ということにするようにしてみたことで、そこから“共生”する道筋を考えることが段々とできるようになり、“対話”が大事だしとても有効だし「わかり合えないをわかり合う」ができれば、それで“三方よし”の未来を一緒に作っていくことができるんだと手触りを持って思えるようになっていきました。

冒頭のように“率直に疑問に思ったこと”を話を仲間としてみたことで、“学び”の概念だったり、“対話”の重要性だったり、未来の共生だったり、そんな自分達にとって極めて大切なことをあらためて振り返り、その流れの中にあった“構造”を再発見して再認識したことで、今までやってきたことを更に明確に再現性をもって使えるようになった気がします。

仲間との対話や、こうして考えたことを文字にしてみて自分自身と対話をすることが、まさに今日の“学び”の最後の段階でもある「振り返り・フィードバック」になっていることもハッキリと見えてきて、「まるで“学びの円環”の自家発電や!」と彦摩呂のように叫びそうになったところで、いつの間にか土曜日が夕方から夜に変わっていたことに気が付きました。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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