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以心伝心摩訶不思議

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

家の庭には、いつも老犬が寝ています。

もうかれこれ15年以上は生きているので足腰が弱っていたり、歩くと疲れてしまったりして、1日の大半を寝て過ごしていますが、まだまだ元気にごはんもバクバク食べています。

老犬の寝ているところには、いつも老猫がくっついて寝ています。

老犬は体が大きいので、暖かい面積が大きいんでしょうか、ピッタリくっついて気持ち良さそうに寝ていますし、暖かくなると2匹で仲良く日陰になっている場所に体を伸ばして涼んでいる姿も見かけます。

この2匹が、とても仲が良くて、寝ている時だけじゃなくて起きている時にもよく一緒にいて何かをしています。僕からは何をしようとしているのかはよくわからず、ただウロウロ歩き回っているように見えますが、あっちへフラフラこっちへフラフラしているかと思えば、またうずくまって寝ようとしていたりしているように見えますが、それでも一緒に行動(?)しています。

だけど、老犬が吠えたりする事も無ければ、老猫もニャーニャー鳴いていたりすることもありません。

ただただ黙って一緒に行動しているだけです。

その老猫以外にも、猫が何匹かいるんですがその猫たちの中には、しょっちゅうニャーニャー鳴いているヤツらもいるので、個人的には静かにしているこの老いた2匹が気に入っています。

それに、この2匹を見ていると、とても不思議に思う事もあります。

他の猫たちのようにニャーニャー鳴くわけでもないし、犬が吠える事もほとんどありません。

なのに、どこからどう見ても完璧にコミュニケーションが取れているように見えるんです。

この老猫以外の猫が老犬に近づいていくと、他の飼い猫でも野良猫でもよく吠えられているのを見かけますが、この老猫は吠えられもせず、一緒に過ごしていて息もピッタリに見えるんです。

「これは一体どうやってコミュニケーションを成立させているんだろう?」

それがとても不思議です。

時間のある時に観察していても、その理由は全くわかりません。もちろん、そんなに長時間観察しているわけでもないのでわからないというのもありますが、「どうやってコミュニケーションを成立させているんだろう?」と考えていてもわかりません。

そんな事を、今日こうやって考えてみて、もしかしたらこういう事だったんじゃ無いかと思い至りました。

「実は、立てる“問い”が間違っていたんじゃないのか?」と。

間違えていたかもしれないと思ったのは、「どうやってコミュニケーションを成立させているのか?」の「どうやって」です。

この“問い”の立て方だと、“コミュニケーションを成立させている手法”に自動的にフォーカスされてしまいます。

「コミュニケーションにどんな手法を使っているのか?」そう問うている事にもなるわけです。

だけど、実際には、僕はそこに“手法”を見出すことができません。何しろ、「そこには何のコミュニケーション手法も存在していないように見えるから」です。

でも、“問い”の立て方を変えてみるとまた別な角度からあの2匹に光りを当てる事ができるような気がしました。

例えば、「なぜ、コミュニケーションが成立しているように感じるのか?」という“問い”に変えてみます。そうすると、僕があの2匹を見て感じている「コミュニケーションが成立していると感じる理由」にフォーカスがあたります。

例えば、「何が、あの2匹のコミュニケーションを成立させているのか?」という“問い”に変えてみます。そうすると、「あの2匹の間に存在しているけど僕には見たり感じ取ったりする事の出来ない何か」に対しての想像力が湧いてきます。

こんな風に、“問い”を変えるだけで、僕の“視点の位置”をずらしたり、“視野の広さ”を変えたり、“視座の高さ”を上げ下げしたり、そんな事が可能になった感じがします。

今回、これを書きながら考えたのは、「何が、あの2匹のコミュニケーションを成立させているのか?」という“問い”によって、「僕には見る事も感じ取ることも出来ない何か」を想像することで、「もしかしたら、人間が持ち得ない嗅覚や聴覚などの感覚器官を持っている動物たちにだけ出来るコミュニケーションなのかもしれないぞ」なんて事を考えています。

例えば、「嗅覚と聴覚によって、相手が自分に対してどれくらいの“加害性”があるのか判断できるのかもしれない」という想像をしてみると、老犬も老猫もお互いに年老いた事によってその“加害性”が随分と無くなったという事かもしれず、確かにそうやって考えてみると、他の猫たちは老猫よりも随分と若いように見えるので、そこに対して老犬が反応するから「老犬に吠えられない老猫と、吠えられる他の猫たち」という構図が見えるのかもしれません。となると、これを本当に確認しようとすれば、観察するポイントや確認する出来事なんていうチェック項目も作る事ができるだろうし、それによって検証できるかもしれないモノもたくさんありそうだぞ。

なんてい言う風に、“問い”を変えると観察する対象も変わってきて、それによって手に入る情報も変わってきて、出来あがる仮説も随分と質が変わってくるわけです。

そして、これはやっぱり“人と人との関係性”を観察する時にも同じように使えるだろうなと、確信に変わりますし、これって文化人類学などの異文化について調べる際に用いるモノと同じだろうなとも思うわけです。

てことは、当然ながら、「とある人の集団によって独自に構築されてきた文化や風土」を研究する際にもとうぜんながら応用できるわけですし、その最たるモノが僕の日常的に関わるところにもあるわけです。

もちろん、“組織”や“チーム”における文化や風土のことです。

そこに活かす事の出来るモノは、じつは日常の様々なところにたくさん転がっているし、それを拾い上げることができるかどうかは、僕自身が常日頃から、「どんな“問い”を持てるか」にかかっているというのをあらためて確認できました。

「やっぱり、“問う・考える・語る”の対話サイクルを使うと、こんなどうでもいい日常の風景も、実は示唆に富んでいたし、何からでも学びを得ることって可能なんだなぁ」

そんな事を、庭の老犬と老猫をボンヤリみていたことから学べましたし、本当にどこからでも学びを得ることはできるし、あらゆる場面が“学びの場”であるという事を痛感しました。

「是非、これからもあなた方からたくさんの事を学ばせて下さい」

庭の毛布の上で丸まって寝ている2匹の老いた犬と猫を窓から眺めながらそんな事を思いました。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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