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切り分けて眺めてはじめて見えるもの

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

ある出来事が起きた時に、それが自分にとって“ネガティブな気持ちになる事”なのか“ポジティブな気持ちになる事”なのか、はたまた“特に何も感じない事”なのか。

目の前のなんらかの出来事を、僕はこれまで大きく分けてこの3つに区別してきました。

例えば、何かを食べた時に「まずい」と感じれば“ネガティブな事”、「おいしい」と感じれば“ポジティブな事”、「特においしくもまずくもない」と感じれば“特に何も感じない事”みたいな区分けです。

そんな風に、例えばテレビを何となく見ていても「これは自分にとって“ネガティブな事”で、こっちは“ポジティブな事”で、あれは“特に何も感じない事”だなぁ」とか思うこともあれば、「なんとなく○○な感じがした時間(日・時期)だなぁ」というように自分の感じたモノを自覚することの無いままにただただ「○○な感じ」という印象のようなものだけ漠然と捉えていて、その「○○な感じ」が「何なのか?」とか「どこからくるのか?」というようなことを一切考えずに過ごしていることも、思い返すとたくさんあったことに気が付きます。

ただ、よくよく考えると、と言うか「よくよく考える」なんて程じゃなく、ほんの少しでも考えてみると、そもそも「○○な感じがする」というのはただ単に僕の内面に湧いてくる“僕だけの勝手な感情”であって、その“出来事や物自体”には一切何の関係もありません。

例えば、僕が「まずい」だろうが「おいしい」だろうが「おいしくもまずくもない」だろうが、どんな感想を抱いたとしても“その食べ物”はただそこに存在していただけであって、それを僕が僕の意志によって口に入れて咀嚼して嚥下して味わったわけです。それこそ、「それってあなたの感想ですよね?」という表現が本当にピッタリくるような状態です。

それが何であろうが“出来事や物自体”は、「ただそれが起きただけ」とか「ただそこに在るだけ」というわけです。

例えば、僕が今日のお昼に食べた“辛みそラーメン”が辛すぎてスープを一口飲んだだけで思いっきりむせたことも、その後に口の中が辛すぎて水を何杯も飲んだことも、その後にはカプサイシンの効果によって頭と顔の汗が止まらなくなったことも、それらは「ただそれが起きただけ」です。

それぞれの出来事に対して、「スープを一口飲んだだけでむせるなんて辛すぎる!」とか「口の中が辛いと言うより痛い・・・」とか「汗を拭くのに忙しくて全然ラーメンが進まなくて困る」なんていうのは、ただ僕が勝手に感じているだけの“私の感想”に他なりません。

ただ、そんな「ただそれが起きた」ということに対して、「自分が何かを感じる」ということをコントロールすることは今の僕には出来ませんし、「自分が何かを感じる」という“反射”のようなモノをコントロールしようとは考えていません。

これをコントロールしようとするのは、言うなれば、「ケガをしても痛みを感じないようにしたい」と思うようなことであって、それは生き物として存在している以上は(手術や病気や事故などでその機能を失わない限りは)“絶対に無理なこと”ですから、そもそも無理筋な願望です。

であれば、「起きた出来事について、自分が何かを感じる」というのはコントロールできませんから、であれば、コントロールするべきは「自分が何かを感じた“その後”の思考について」なんじゃないかなと考えています。

何かを食べて「まずい」と感じても、その後に「あーまずい。ホント食べなきゃよかった。マジで、時間もお金も無駄にしたわ~。せっかくの食事がもったいない。あーあ、どうしてくれるんだこれ」なんていうのは、もはや“感じたこと”ではありません。

これは、「まずい」と感じた後にその“感じたこと”をベースに“考えたこと”です。
そして、“考える”というのは自分の意志で行う行動です。

ただ、この「“感じる”と“考える”は、実は切り分けることができる」ということに自覚的にならなければ、この「まずい」と感じた例のようにその後の“考えたこと”すらも自分が“感じたこと”として認識してしまいます。まさに、昔の僕がそうだったように。

そして、“感じたこと”と“考えたこと”を切り分けずにいると、あたかもその“出来事や物自体”が「そのモノの性質として“自分に与える感情”を備えている」と認識してしまうなんてことが起き始めます。

それが起きると、「アレは“ダメなモノ”だから」とか「アレは“良いモノ”だから」なんて言う風に、自分の思考の中に“決めつけ&先入観”などが知らないうちに形成されてしまって、選択や決断をする時にその“決めつけ&先入観”が大きく邪魔をしていることに気が付かないまま客観的な視点を失った選択や判断になってしまうわけです。

だから、“出来事や物自体”と“自分の感じたこと”と“自分が考えたこと”というのを切り分けることが重要になってきます。

“出来事や物自体=事実”は、ただの事実です。そこには良いも悪いもありませんしコントロールすることはできません。だから、「“事実”が起きた」と受け止めるしかありません。

ただ、その“事実”を受け止めた“わたし”が、その“事実”について何を感じるのか?そして、何を感じるのかをコントロールすることはできません。“感じること”は感じてしまうので、それもただ受け止めるしかありません。「ああ、この“事実”について、自分はこう感じているんだ」と。

そしてここから先についてはコントロールが可能です。

起きた“事実”を受け止めて、それについて自分が“感じたこと”を「ああ、自分はこう感じているんだ」と受け止めた後、「じゃあ、それを踏まえて自分は何を考えて、何を行動として起こすのか?」。ここはコントロ-ルができますし、コントロールをするべき部分です。

これをコントロールすることや、その前段の「事実と感情の切り分け」が、いわゆる「“客観視”ができるかどうか」に大きくかかわってくるところでしょうし、これは後天的に訓練することで大きく伸ばすことができる部分なんだろうなと実感を持っています。

なぜなら、僕自身が以前の自分と比べるとこの「事実と感情の切り分け」や「感情と思考の切り分け」が、大人になってから徐々にできるようになってきたという経験があるからです。
それこそ、昔を思い出すとつくづく思うのが「子どもの頃の自分は、事実も感情も思考も全てが一つに繋がっていたので、本当に何も考えていなかった単なる“野生の動物”だったなぁ」と。そして、以前は昔の自分を思い返すとまあまあ大きな苦痛を伴ってもいました。
本当に、ただただ感情の赴くままに生きていたので、今になって「こういうことが大事だよなぁ」と思えば思うほど、「子どもの頃の自分にもっと早くこういうことを教えてあげたかった・・・」と思ったりもするんです。
とは言え、時間を遡ることはできないので、今こうして理解できるようになったことを大人になった自分が実践を繰り返して、少しずつコントロールできる幅を増やしながら、“生きる喜び”みたいなモノを実感できる瞬間を増やしていくことで、その昔の“野生の獣”だった自分の経験との対比を考えてみたり、そこからだって充分に抜け出して“人間”として生きていくことができるんだってことを実感することができるようになってきました。なので今では「案外と役に立つ経験だったな」と考えることができるようになっています。

こんな風にして、「“痛み”とか“苦しみ”という自然に湧いて出てくる苦痛自体はコントロールできないけど、その“事実”の後にやってくる“自分が増幅させてしまう苦痛”は、自分の考え方や取り組み次第で幾らでもコントロールできる」という実感が持ててきているので、今では自分自身に対して少しだけ信頼感を持てるようになってきました。

例えば大きな“苦痛”がやってきた時でも、
オレ、ダイジョーブ。コノテイドノ苦痛ニハ、ヘコタレナイカラ
なんて、自分自身のレジリエンスに対して信頼できるようになっています。

だからまだまだ大丈夫。
苦難でも苦痛でも、来るなら来なさい。
どんと受け止めてみせましょう。
ここまで来れたんだから。
ここから先にもうちょい山場があったとしてもまだいける。

なんて言いながら、冷や汗をかきつつ前に進んで行こうと思います。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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