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おんなじなのにぜんぜんちがう

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

仕事とは全く関係の無い休日の中で、「知ってる」と「わかる」と「できる」と「使える」の違いについて考えるタイミングがありました。

僕は日曜日の昼間には、できる限り運動をする事にしています。

家から車で15分くらい走ったところにあるブラジリアン柔術の道場で習っているんですが、体調が悪かったり特別な用事があったりしない限りは、日曜日の昼間のクラスに練習に行く事にしています。

ここ最近の自分の仕事状況だと、平日の夜クラスに出席するのがなかなか難しい事が多いんですが、今年の目標の中の一つに「週に1回(以上)柔術の練習をする」という目標を掲げているのもあって、日曜日の昼クラスを軸にして2022年は今のところ週に一回以上をクリアしています。

クラスの最初から最後まで出席出来ると、準備運動からはじまり柔術に必要な基礎運動をやってテクニックとスパーリングまでやれるわけなんですが、冒頭の「知ってる~使える」までの過程をこのクラスの中で一通り体験できる事があったりします。残念ながら、僕の未熟さ故に最後の「使える」までいかない事がほとんどではありますが、今まで何となくで使っていた技に関しては、このクラスでたまたまその技にあたったり、類似した技で同じ動きを使うモノだったりした時には「使える」に変化する体感が得られたりもします。

そんな風に、「今までもそういう体感を得ていたんだ」という事に、ようやく今日気付く事が出来ました。

クラスではどの技も細部までキッチリとポイントを教えてもらえます。そこで「知らない」から「知ってる」への変化があります。先生の実演を見て、説明を聞くと「なるほど。確かにそういう技見たことあるような気がする。こんな風になってるのね!」という「知る楽しさ」がここで得られます。

だけど、この時点では「知らない」が「知ってる」に変化しただけなので、当然ながら自分がやってみて出来るかどうかとはあまり関係がありません。

ただ、この「知らない」から「知ってる」に変化した瞬間に、その時点から「使える」まで瞬時に進んでしまう人というのが、とても稀にですがいたりするんです。そんなに多くはありませんが、これまでに何人かそういう人にあった事があります。こういう人をきっと“天賦の才を持つ人”と言うんだろうなとは思うんですが、全体で見た場合にはほぼ存在しないと言ってもいいくらいの割合でしか観測した事がありません。そして、そういう“天賦の才を持つ人”が長く継続してその競技をやっているケースはこれまで聞いたことがありません。どうしてなのかはわからないんですが、そういう類い希な才能とかセンスを持っていた人は、結構早い段階でその競技からいなくなってしまうんです。

そんな極めて例外の話もあったりはしますが、ほぼ全ての人は「知らない」→「知ってる」→「わかる」→「できる」→「使える」のルートを必ず辿ります。

クラスでは「知ってる」から「わかる」に移行するために、技を反復練習する時間があります。ここで、先生が説明してくれた細部にわたる自分と相手の体の制御を試してみます。そうすると、「どうしてそうなるのか?」が何度も繰り返してやってるうちにわかってきます。わかってくると「なるほどね」となって、反復練習の中でスムーズに技がかかるようになってきます。技がかかるようになってきますが、ここではまだ「できる」にはなっていない事がほとんどです。

これを今度はスパーリングで試します。約束の中での動きではなくて、「相手には相手のやりたいこと=対戦相手である自分を倒しにくる」という状況の中で、教わったその技を狙ったうえで相手にかける事が出来るのか。これが出来てはじめて「できる」という状態に進めます。

そして最終段階の「使える」ですが、これは「その技に適切な場面や状況や状態になったらいつでもその技を出せる」という自分の状態が「使える」なんじゃないかなと思っています。

これに気付いたのは、それぞれの段階で自分の体の感覚がどれも全然違った感覚だったからです。

「知らない」→「知ってる」→「わかる」→「出来る」までに変遷していく中で、同じ技も体感が全然違います。いわゆる、ぎこちなさみたいなモノの度合いが変わりますし、やっていてもどんどん滑らかになるわけです。あまり相手の抵抗を感じなくなってくると言いますか。

ただ、1回のクラスの中で「知らない~使える」までの段階を経た技はいまのところ無いので、「使える」の体感については自分の中の“得意技”と呼んでいる昔から使っている技の体感です。これはもう、その時その状況になると特に意識しなくても勝手に自分の体が動いて出てくる技なので、これはこれでまた全然違う体感になります。

自分でもこれに気付いて「なるほど、こんなに体感が違うんだ」と驚きを覚えました。

と同時に、「これらの違いを、運動という体感を伴わない活動で理解するって、めちゃくちゃ難しいんじゃないかな?」と思ったんです。

よく、様々な仕事の場面で言われる「知ってる~使えるの違い」を体感を伴って理解する事が本当に必要なんだとしたら、そのためには、それぞれの仕事の中で「どうすれば、知らない→知ってる、にする事ができるのか」についてかなり考えないといけないんじゃないかと思うんです。情報や知識を見たり聞いたりするだけで「知ってる」になるのかどうか。その先の、「知ってる」から「わかる」への移行も同じように「どうすれば、知ってる→わかる、にする事ができるのか」についても同様に考える必要があるでしょう。当然、それ以外のあらゆる段階で同じように考える必要があるはずです。

そうしてそれをやってみて、そこで得られた各自の体感を照らし合わせて比較したり検討したりすることも必要なんじゃないかなと思ってます。

柔術みたいなコンタクトスポーツでは「相手がいる競技」だから、その体感を、相手もそれを見ている先生も感じる事が出来る場合がとても多いという特徴があるのでとにかくカリキュラムに沿ってやっていけば多くの人が(スピードはばらつきがあるでしょうが)その体感を得られます。

だけど、いわゆる仕事における「知ってる~使える」というのは、その多くが頭の中だけの活動だったりして、各段階の違いを体感できるケースというのが得られるかどうかは、その仕事やその職場次第みたいな部分も多いよなあと思うんです。

運動の中で得られた体感の芯みたいな部分と、頭の中の活動で起きている「知ってる~使える」までの変遷で得られる感覚の芯みたいな部分を照らし合わせて、それでどの段階にいるのかがわかるように出来れば、こういう運動の経験や他の習い事なんかの経験も大いに仕事や他の事柄にダイレクトに役立たせる事ができるんだろうな。

やってる事柄は全く同じなのに、自分の段階が変わると、全然違うモノになてしまうんだから面白いやら恐ろしいやら。

そんな妄想をしつつ、朝から運動したからなのか途轍もない眠気に襲われているので、この後は、今日も今日とてお昼寝タイムに突入しようと思っています。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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