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苦い薬を飲んで目が覚めたらリングの上だったという異世界転生物語

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「話を聞いていると、自分の中の“こうあるべき”に囚われているように感じました」

組織開発の一環としての“外部メンター”をやっていると、他者に対してこんな事を伝える場面がよくあります。

これまでにも、キャリアカウンセリングの場面や、経営者とのセッションをする中で、冒頭の言葉を他者に対して言う場面が幾度となくありましたし、その度に、「言われてみれば…」なんて反応をもらう事も多くありました(それが本心からだったかどうかは置いておくとしても)。

だけど今日は、僕がこれを他者から言ってもらえる場面がありました。

本当に久々に“この言葉”を自分に向けて言われましたが、お陰で、自分の中に確実に在るけれども普段はなかなか表面化してこない“どうしようもない自分”にハッキリと気が付く事が出来ました。

気付いた今では、とても腑に落ちましたし、とてもスッキリしています。

とは言え、です。

とは言え、これを言われたその瞬間は、「え?自分にそんなところが?」とほんの一瞬どぎまぎしたのをハッキリ自覚しました。

ただ、その場は「初対面同士で、自分の“困っている話”をして、その話を聞いた側が感じた事を率直にフィードバックする」という状況だったので、どぎまぎしつつ、素直に相手の話を聞く事ができました。

その中で気付いたのが、「自分が考えている“自分はこうあるべき”という姿を必死になぞろうとして振る舞うが為に、結果、役に立たない言動をしている場合がある」という事でした。

これだけ、「役に立つことをしよう。その為に、出来る事を考えて、行動しよう」なんて常日頃からこのnoteで書いて、実行しているつもりだったはずなのに、です。

これは、なかなかにショッキングな事実でした。

だけど、「役に立つことをする」という考え方を捨てない限りは、この事実を受け止めて、受け入れるしかありません。

もちろん、「そんな事無いよ!自分は、いつだって役に立つことばかり考えてるし、自分の言動は全て役に立つことをするためにしているんだから、囚われなんてあるわけないし!」んて言って、その他者からのフィードバックを跳ね除けて、我が道を行くという選択肢もあるのかもしれません。

ただ、それをするんだとしたら、「現実的に“自分が困るような状況に陥った”という事実すら捻じ曲げて、新しい解釈を生む必要が出て来る」という、これまたどうしたら良いかわからないような現実も、そのすぐ後に待ち構えているのがハッキリとわかってしまうわけです。

それをやっちゃったとしたら、それはもう、見るも無残な「役に立つ」とは真逆のベクトルの、とてつもなくみっともなくて悲惨な「役に立っていない事を必死にやって疲弊していく状態」が待ち受けているのは明確です。

そうなると、どれだけショッキングで認めたくない事であっても、その事実を真正面から受け止めて、しっかり咀嚼して飲み込んで受け入れる事しか出来ませんでした。

そんなショッキングなフィードバックを咀嚼するのはなかなかに苦痛ですし、それを嚥下するのだって苦痛を伴います。美味くは無いし、食べやすくも無い。できれば口になんて入れたくない。

だけど、これをしたその直後から、今までの自分のダメだった部分が自分の中に明確に描き出されつつ、そうじゃない行動をどんな風にとる事で役に立つことに繋がるのかが、かなり明確に浮かんできました。

ホント、「良薬は口に苦し」ってよく言ったモノだなあと思いました。

そうして描き出された“これからの自分の言動”については、特に訓練や学習が必要な複雑なモノではなく、今の僕のように「ちょっとした気付きと、その“適応したくないモノ”に適応していく力」さえあれば、能力の拡張や伸長なんかは一切必要無く、今すぐにでも確実に実行できるモノばかりだということも明らかになりました。

こういうのを、いわゆる“発想の転換”とか“目の付け所を変える”とかって言うんだろうなと思いつつ、なんだか格闘技や武術にも似ているよなあと思いました。

格闘技や武術などの場合は、対峙した相手よりも自分の方が、体格も力も技術もスピードも明らかに全てが上回っているのが明確にわかっているのなら、何の苦も無く、何のプレッシャーも感じずに勝てるわけなので、余裕を持って対応できるわけです。

例えるなら、体を鍛えまくって長年稽古をしている大人が、何もしてこなかった入門したての小学生と手合わせをする場合を想定してもらうとわかりやすいかもしれません。

この場合の大人は、「如何に小学生に怪我をさせずに楽しんでもらって稽古を継続してもらうか」なんて事だけを考えながら手合わせする事が出来るわけです。これがわかりやすい余裕です。

だけど、同階級で体格も力も技術もスピードも自分が上回っているかわからないどころか、手合わせしてみない事には、相手がどんな技術や実力があるのか全く未知の場合には余裕を持って対応するなんて事はとても難しいわけです。試合の状況がそういう感じでしょうか。

そんな試合に臨みながら、「どうやって闘うか」というのは、よっぽどの強い覚悟があれば、「自分の得意技を真正面からぶつけて、それが通用しなければ負けるだけ」という闘い方を選択できるかもしれません。だけど、それが可能なのは本当のごく一握りの“超人”と形容されるような人と、漫画の中のスーパーヒーローくらいのもんじゃないかなと思うんです。

実際の様々な競技においては、「如何に勝利するか」を徹底的に考えて、その場その状況に合わせて自分の持てる技術や力やスピードや知識や勘やセコンドの指示などを総合して、臨機応変に闘うのが当たり前です。

そして、そんな“闘い”における「臨機応変さ=自由度」が最もあらわされるものが“プロレス”だと、僕は考えています。

僕の大好きな“プロレス”。

メキシコでは、“ルチャ・リブレ”と呼ばれています。

和訳は、“自由なる闘争”。

プロレスのリングの上で闘い、反則行為はあるけれど5カウントを数えられるまでは許されているので実質は反則だって自由。

「お互いのプライドだけがルール」なんて言われるのも、プロレスの特徴です。

得意技だけで押し切れるならいざしらず、化け物級の巨大な相手と闘う場合だってあるわけで、そんな時に小さな自分の得意技が通用しないことなんてザラにあるでしょう。

だったら、意表をついて丸め込んで3カウントを奪ったっていいわけです。

どれだけ自由な発想をして、どれだけ自由に闘えるか。

つまり、自分自身を自分の思いこみからどれだけ解放させることができるのか。

そうやって、闘う相手と、観客の“思い込み”という想像を超えていく事ができるレスラーこそが「素晴らしいプロレスラー」なんだと思うんです。

僕は、ずっとそんな「素晴らしいプロレスラー」に憧れてきましたし、今でもその気持ちは変わりません。そういうレスラーは僕にとっては“ヒーロー”です。

「そういうヒーローになりたい」

そんな事を、ずっと心の片隅で思い続けています。

だけど、いつの日か、自分の中に慢心が生まれていたのかもしれません。

まるで“形式ばったヒーロー”のように、自分の中の一つの型にはまったような“闘い方”に終始してしまうような“しょうもないヒーローもどき”になってしまっていた事が、今日はっきりわかりました。

僕がなりたかったのは、“ヒーローもどき”じゃなくて、自由なる闘争を具現化する素晴らしいプロレスラーのような“僕にとってのヒーロー”でした。

それを、「良薬」の如き「口に苦い」フィードバックによって、ハッキリと思い出すことが出来ましたし、これからの自分の「こうありたい姿」が明確になりました。

「あらゆる物事から自由でいて、かつ、役に立つことをするために、あらゆる手段を駆使して、最後には3カウントを取り、役に立つ事を成し遂げる存在」です。

その為なら、ストロングスタイルもルチャリブレもUスタイルだってやるでしょうし、パイプイス攻撃だって凶器攻撃だって毒霧だって使うかもしれませんし、場合によっては電流爆破デスマッチだってやるかもしれません。

仮に、誰かからどんな評価をされようとも、それが現場に即した“役に立つこと”なのであれば、どこまでだって「自由なる闘争」を繰り広げようと思っています。

これが僕の目指すヒーロー像ですし、やりたい事なんだなって、今日のフィードバックをもらった事で、あらためて自己理解が深まりましたし、自分の根底にあるものがあらためて明確に光り始めたように感じています。


「何かがおかしい」そう思った時は、ほとんどが自分自身の在り方がおかしい時であり、疑うべきはいつだって、“今ここ”にいる自分自身なのかもしれません。

闘い方は、これまでもこれからも、いつ何時でも”自由”なので。




あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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