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似ているように見えるけど全く異なるモノだから

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「最近、こんな話が出てきて困ってるんですよ」

そう言って、ここ最近社内であった出来事について話してくれる経営者の方。

その話の内容はと言えば、社員さんから出てくる不平不満というか愚痴のような話でした。

その経営者の方は、僕から見るととても社員さん思いで「社員さんが気持ちよく働けるように」ということをいつも考えて社内の色んなところに気を配っていて本当に細かいところまで自分が動いて環境を整備している方だったりします。

そういう方を一般的には“優しい”と形容するんだろうと思うんですが、いわゆる一般的に言うところの“優しい経営者”だということは社員の方々もハッキリと認識している様子が伝わってきます。

だからこそ、この経営者の方が困ってしまうような不平不満だったり愚痴だったりを、社員さんが直接その経営者の方のところまで来て伝えていくという状況がずっと以前から続いていたんじゃないかと思っています。

話を聞いていて「どうやらこういうことみたいだぞ」と見えてきたのは、(少し大げさに言えば)「ウチの社長に対しては何を言っても大丈夫だ」という確信を社員さん達が共通認識として持っているらしいということでした。

仕事をしていて「嫌だな」とか「めんどくさいな」とか「疲れたな」とか「ムカついたな」とか、そういうことがあった時に、社長のところにその感情をそのままぶつけに行って「ちょっと〇〇があって△△(感情)なんですよ!もうやってられませんよこれじゃ!」というような話をしても、その社長さんはまずその話を聞いてくれるということがずっと続いていて、社員さんがした話に対しては必ずその話を一旦は全て受け入れようとしてしまっている様子でした。もちろん、社長さん本人としては「それでOKだよ、とは言ってないんですけどね」と言っていましたが。

そんな構造を、外部にいる僕から見ると

“サービス受給者(消費者)”と“サービス提供者(企業)”の関係性にそっくりだなぁと感じます。

特に、その関係性の中でも歪な形状をしている“クレーマー気質の消費者”と“企業”との関係に似ているなぁと感じます。

僕は今でこそ“そんなこと”に苛まれる機会はほぼなくなりましたが、その昔会社員として働いていた時には、いわゆる“クレーム処理”を担当していたことがありました。1社でだけではなく、次に行った会社でもその経験はとっても役に立ち、いつの間にかそこでは幾つかの拠点で起きた“クレーム”に関することを全て担う責任者としても機能していました。

そんな経験を経てきた中で、僕の中には「組織として取り合うべきクレーム」というモノと「組織として取り合ってはいけないクソクレーム」というモノが存在していることが見えてきました。

世の中で__特に“消費者側”の論理として__言われているのが「お客様からのクレームには真摯に対応しなければならない」みたいなことがまことしやかに言われていますが、これは“一面的には”その通りだと思っています。

でも、「サービス提供側として真摯に対応する」ということは、どれだけ「声が大きいクレーマーだなぁ」とか「メンドクサイヤツだなぁ」とか「マジで相手してたら仕事にならないからこの辺で機嫌取っておいた方がいいんじゃない?」とか思ったとしても、「今後の利用をお断りする」という選択にしかならない場合も多々でてきます。

その“クレーム”の内容が「サービス提供側として、目的から考えた時に、どこまでの対応をする必要があるのか?」という“問い”に対して真摯に向き合って考えた内容にしたがえば、「謝罪をする必要が無いと判断する」とか「何一つ譲歩する必要が無い」とか「今後の利用をお断りする」ということに当然なったりするわけですし、もっと言えば、“そういう真摯な回答”をすればその後にどんな暴言を吐かれるのか、どんな嫌な目にあわされるのか、どんな怖い事が待っているのか、恨まれたり憎まれたりして“イイ人”ではいられなくなるんじゃないか、ということすらも真摯に受け止めなければならない状況が生まれることだってあるわけです。

僕が長年に渡って“クレーム”というモノに対峙してきた経験の中でずっとこんなことを感じていました。

「クレームっていう横文字によって、色んなことが覆われてしまって、本当に大事なことが全て見えなくなっていて、消費者にとっても、“クレーム処理”を誰かにやって欲しいと考えている“クレーム処理担当”以外の組織の人達にとっても、ものすごく便利な言葉になってしまっているんじゃないか?」

そして、数多の“クレーム対応”の経験から「組織として取り合う必要のあるクレーム」と「取り合う必要のないクソクレーム」にハッキリと別れていることがわかりました。

言うまでもないことですが、「組織として取り合う必要のあるクレーム」に関しては全速力で全身全霊で向き合って取り組んで必要があれば改善をしていかなければならないモノです。もちろん謝罪やその他諸々が必要なことだってあるでしょう。

それとは真逆に、「取り合う必要のないクソクレーム」とは、単なる“愚痴”とか“やっかみ”とか“誹謗中傷”とか“インネン”とか“抵抗してこない(はずの)相手に対して一方的にぶつけることのできる石礫”とかだったりするわけです。

そんなモノには、誰一人として取り合う必要がありません。

そんなモノは全て“人間”という生き物の中に存在している仄暗い部分から吐き出されてきたどす黒くドロドロした薄汚い穢れの塊のようなモノにすぎません。まさに“感情の排泄物”とでも言える気がしています。

そんなモノを、「“仕事”だから」という言葉によって“誰か”が真正面から受け止める必要なんてありません。

そんなモノは、それを生み出した本人以外の他者に向けて吐き出したり投げつけていいはずのないモノです。

そうやって吐き出された“それ”は、誰も受け取ることをしなければ、そのまま吐き出した本人に真っすぐに返っていくモノです。

だけど、なぜだか“そんなモノ”を“誰か”に受け取らせようとする“クレーマー”という存在がいたり、“そんなモノ”を自分の組織の“誰か”に受け取らせようとする人が組織内にいたりするわけです。
そして、何故だかそういう“クレーマー”が発生するところには、“そんなモノ”を「私が受け止めなくちゃ」と思ってしまう“イイ人”が存在していたりするのが、この世の中の様々なところで起きている“あるある”だったりします。

「取り合わなければならないクレーム」は、そのサービス提供者である組織にとってはまさに“原石”です。それに真正面から向き合って、自分達の至らない部分に気付かせてくれて更なる改善に向かうことができるためのフィードバックです。

「取り合う必要のないクソクレーム」は、人間という業の深い生き物が内包している闇から放出された穢れた汚物です。間違えてそれに触れてしまえば、ただただ削られて消耗してダメージを負うだけの“呪い”のようなモノです。

僕から見ると、即座にわかるそんな全く性質の違う二つのモノが、世間的には“クレーム”とう言葉でオブラートにくるまれていて、どっちも「とても大事な真正面から取り合うべきモノである」という面をしていたりするわけです。

その違いを判断するには“目的”という絶対に揺るがない判断基準が必要です。

そして、その基準を用いて判断を下すには“勇気”が必要です。

「こんなことを言ったら相手が嫌な気持ちになるのかもしれない」とか「これを伝えたら今よりももっと怒るかもしれない」とか「こんなことをしたら自分は“イイ人”じゃあいられなくなるかもしれない」とか、そういう類の自分自身の中に常に生じる“適応課題”を乗り越えていくための“勇気”が必要です。

クソみたいな“クレーマー”の消費者であれば「二度と利用していただかなくて結構です。ありがとうございました」と伝えて、その後は本当に利用してもらわなければそれで済みます。

でも、冒頭の話をしてくれた社長さんのように、社員さんが“クソクレーマー”と化していたらそういうわけにもいきません。

だから、しっかりと「自社の目的」や「自社の社員としてあるべき振る舞いや言動」というモノについての教育を、日々の業務を通じて、情理を尽くして、伝え続けてフィードバックし続けていくことが必要なんじゃないかなと思っています。

これまで続けてきた“イイ人”のままでは社員さんが“クレーマー”のように振舞い続けてしまって成長できないままになってしまうので、時には、「取り合う必要のあるクレーム」のような厳しいフィードバックだって“勇気”を出してガッチリしっかり相手が受け止められるように伝えてあげる必要はあるんだろうな。そして、それこそが真の“良い人”のすることなんじゃないかなと思っています。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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