橋にも色々ありまして
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「自分と他者との間に橋を架ける」
ウチの会社ではこういうことを仕事の中でとても大事にしているんですが、大事にしているはずの“この考え方”についてもしかしたら大きな勘違いをしていたんじゃないだろうかということに気が付いてしまいました。
とは言え“この考え方”自体については「その通りだ」と今でも考えていますし何の異論もありませんし今後も“この考え方”はベースにしていくつもりです。
じゃあどこに勘違いがあったのかと言えば「橋を架ける」という部分の「“橋”について勘違いをしていたようだ」ということに気が付きました。
それに気付いたきっかけは、いつも通りの仲間との“対話”の中で、「“橋が架かる”についての認識」について仲間が話をしてくれたことでした。
その時の正確な話を流れについては、その後の“気付き”からの興奮によって訪れたマシンガントークに押し流されてしまってハッキリとは覚えていないんですが、仲間がこんな“問いかけ”をしたように記憶しています。
「(ある人についての話で)そこに架かっている橋はどんな橋のイメージですか?」
この“問いかけ”をされて考えた時に気が付いたのは、僕の中には「橋を架ける」ということのイメージはありましたが、その中には「どんな橋を架けるのか?」ということについてのイメージがこれっぽっちもありませんでした。
もっと言えば、僕の中にあった「橋を架ける」のイメージはそれらの橋が全て“レインボーブリッジ”とか“瀬戸大橋”のように、誰でもどんな物でも通れて運搬できるような「何もかも全てが双方向で行き来できるモノとしての橋」というようなイメージをとても自然に、そして、これまでずっと持ち続けてきてしまっていたんじゃないだろうか、ということに気が付きました。
それに気付いてまさに膝から崩れ落ちんばかりに愕然としました。
なぜなら、僕の中の“橋”のイメージがこんな風に貧困だったばかりに、恐らくこれまでに他者と自分との間に架かっていたであろう“橋”を「架かっている橋として認識することができなかった」ということが多々起きていたんじゃなかろうか?と己に問うと同時に「そう考えてみると、アレもコレもソレもそうだんだろうね」という回答が瞬時に頭の中を駆け巡ったからです。
そうして考えてみると「橋にも色々ありまして」ということがスンナリと腑に落ちるとともに、レインボーブリッジや瀬戸大橋のような巨大な橋だけが橋ではなくて、吊り橋や丸太橋や脚立を伸ばして横たわらせたようなモノやロープを一本向こう岸に渡しただけのモノだって「何も無い状態」に比べたらそれだって“橋”と呼べるモノに違いありません。
そんな様々な“橋”の数々があったにもかかわらず、これまでの僕は“荷台に満載した様々なモノを運搬しようと大型トラックを運転した状態”で“向こう岸との間に渡された一本のロープ”を前にしてこう嘆きながら愕然としていただけでした。
「橋が架かったと思っていったのに、橋なんてどこにも無いじゃないか!」と。
だけど、そこに“一本のロープ”が向こう岸に架かったのであれば、“運べる限りモノ”を入れたリュックを背負った状態で、レスキュー隊員のようにそのロープに両手と両足を使って逆さにぶら下がった状態で向こう岸まで渡ることだって可能だったはずでした。
でも、その時の僕には“一本のロープ”が架かった瞬間を捉えて「あ、今、自分と相手の間に橋が架かったぞ」という“感覚のようなもの”を認識することは出来ていたけれども、それが実は“一本のロープ”が架かった感覚だったことに気付けず「これでレインボーブリッジを安心して行き来できるな」と勝手に思い込んでしまって、実際に架かったはずの“一本のロープ”を「自分と相手の間に架かった橋だ」と認識することができていなかった。
そんなことがこれまでに数々起きていた、というよりも、自分自身の認知によってそういうことを起こしてしまっていた、ということに気が付いてしまいました。
「架ける橋にも色々ありまして」
そういう概念を持つことによって「自分と相手との間に架かった橋はあるのかないのか?」「あるのであればそれがどんな橋なのか?」「架かっている橋を使って行き来をするにはどんなやり方があるのか?」なんてことを細かく見て考えて検討することが、今後はできるようになるのかもしれない。
そんな“希望”のようなモノを、とても大きな己への失望と絶望のあとにまあまあ強めに感じることが出来たので、とっても痛みと喪失感を伴った体験ではありましたが、これでまた一つ“適応課題”を乗り越えることが出来たのかもしれない、なんて今は捉えることができているので良かったなぁと思っています。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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