まずは受信からはじめよう

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「特定のモノをある日を境によく見かけるようになる現象」

これに何か名前がついていたような気もしますが思い出せないので、「特定のモノを~現象」とそのまま呼ぶ事にします。

そんな現象が、時々自分にも起こります。

例えば、「あ、あの車かっこいいなあ」と思ったタイミングで急に街中に「あの車」が走っているのをたくさん見かけるようになるとか。
自分がトレーニングを再開した途端に、SNSでもリアルでもトレーニングをしている人を多くみかけるようになったりとか。そんな事が、これまでにも最近でも起きる事がよくあります。

ある特定の“そのモノ”を意識するまでにも当然目にしていたはずなんですが、自分が“そのモノ”を意識した途端にいきなり蛍光マーカーでも引いたかのように浮かび上がってくるんです。

この現象を人生の中で何度体験しても「ホントに面白いなあ」と思うんですが、なんでここまでハッキリと浮かび上がってくるんだろうか。と言うか、何でここまでしないと浮かび上がってこないんだろうか。そんな事がとても気になってくるんです。

「意識する」とか「集中する」とか「顕在化させる」とか「気付く」とか、そういった類の事なんだろうなというのは何となく理解できるような気がするんですが、そうは言っても、普段から全然気にもなっていないような事を無理やりに「意識する」「集中する」「顕在化させる」「気付く」なんて事をしようとしたとしても、もしかしたらとても一時的には同じように「これまで見えていなかったモノが浮かび上がってくる」と言う効果があるかもしれませんが、その効果もよっぽど一生懸命に意識したり集中したり顕在化させたり気付こうとしなければ、いつの間にかその効果は無かった事になってしまうというのもこれまでに何度も経験してきたような記憶があります。

かと言って、これまでに「自然と出来ていなかった事柄」であっても、毎日気を付けるようにする事で徐々に出来るようになっていった事もあるわけです。

例えば、今こうやって書いているnoteだって毎日更新をしてそろそろ7か月が経とうとしていますが、これだって未だに「自然と出来ている事柄」ではありません。なんとか、一生懸命頑張って「書こう」と思って書いているから出来ている事です。さすがに、これだけの長期間毎日やっていると、「今日は書くこと無いよ」とか「今日はもうめんどくさいから書きたくない」とか思う事もありますが、動機はどうあれ、「だけど、せっかく続けてきたんだし、継続を止める程の大きな理由も無いから続けよう」と思って書いているような事もよくあるわけです。

僕にとってのこのnoteみたいに、継続していてもなかなか「自然に」とはいかない事柄もあるでしょうし、それとは逆にそこまで頑張らなくても「自然に」継続するようになっている事柄もあるでしょうし、どこまでやっても「自然に」なんていかないでずっと不自然なままの事柄もあるでしょうし、何も意識することなく本当に「自然に」習慣化して継続している事柄もあるでしょう。

じゃあ、一体全体、この「自然に」継続できるようになっている事とそうでは無いことの間にはどんな差があるのか?そんな事を、つい考えたりしてしまいます。

何しろ、あらゆる事が「自然に」継続できるようになっていた方が自分にとって良いコトなんじゃないかなあ?なんて思ったりするんです。

で考えてみるんですけど、「自然に」継続できるようになった事と、過去からずっと「自然に」できるようになりたいと思ってなかなか出来るようにならない事柄についての差と言えば、「それが本当に自分にとって必要不可欠かどうか」という“切実さ”の違いかなと思うんです。少なくとも、僕自身にとっては。

なので、いくら僕の中の表層上の自分自身が「これは俺に必要だぜ」と思ったとしても、それは僕の内面の表層上の話なので、何度そう思ったとしても(と言うか、そう思う事が何度もあるという時点で実は確定しているんだと思いますが)、それが「本当に自分にとって必要不可欠である」と自分自身の中で肚落ちしていないがために、それに取り組む事が「自然に」継続することにならなくて、結果、何度も何度も「これは俺に必要だぜ」と思う場面がやってくるという事なんじゃないかなと思っています。

逆に、本当に心の底から「これは俺に絶対に必要不可欠だ」と思った事柄については、そこから何度もそう思うような事が無いまま、いつの間にか、自分の中で「自然に」継続しているような事が幾つかは思い当たります。

もちろん、何度も何度も「これは俺に必要だ」と思って継続させるための取り組みを何度も繰り返し続けた事によって、「自然に」継続できるようになった事もあるので、一概にどこで線引きをすれば良いのかという話は、僕には出来ないという事でもあるんですが。

何はともあれ、そうやって、意識するとも無しに意識する事が出来るようになっている事柄が増える事を「アンテナが高い」とか「アンテナを張ってる」とかいうような状態なんじゃないかなと思ったりもするわけです。

ただ、「自然に」出来るようになって、「自然に」意識に上るようになっているという事は、よっぽど自覚しないと“それ”が今の自分自身にとって重要だったり必要だったりするかどうかという「問い」を投げかけるタイミングを失ってしまうという事にも繋がるんじゃないかなとも思うんです。

という事は、「アンテナを高くする」だけでは片手落ちで、その高くしたアンテナについても常に「このアンテナって自分に必要なのか?」と問い掛け続ける事が必要だろうし、そのうえで、「必要無い」という判断になれば、それまで「自然に」意識していた事柄を自分の中からフェードアウトさせつつ、その時に必要になった新しい何かを「自然に」継続できるように取り組み続ける必要があるんだろうなあ。

そんな事を、街中を車で走っていると最近よく目に付く車種を幾つも目にしながら考えていました。

自分自身、昔の職場で部下を持つ立場を任されていた時に、今ほど考える事もしないままに、「アンテナを高くしておきましょう」なんて事を言っていたなあなんて事も一緒に思い出しながら。

こうやって昔の事を思い出すと、あの時、「アンテナ」の意味も、「アンテナを高く」の意味も、「アンテナを高くする事」の価値も、しっかり解説しつつ行動として分解して指導出来なかった自分の実力不足を痛感しますし、こういう細かい事がやっぱり大切だったりするんだろうなあなんて思うわけです。

あの頃の自分の思考や行動についての数々の後悔が、今こうやって新しい何かに繋がったりする事もあるので、仮に思い出したくない自分自身の過去だとしても、しっかり思い出す事で、今の自分だからこそ新しい学びに繋げる事が出来る。なんて事も、もっとたくさんあるんだろうなあ。

いずれにしても、何かをやろうと思ったら、近道なんて無いし、一朝一夕にできる事なんてほとんどありはしないんだから。ただただ、じっくり基礎を築いていって、いつの日かそれを自在に使いこなせるようになれるまでやるしかないんだよなあ。

そんな事をボンヤリ考えている6月最後の日曜日の夜です。

また明日から頑張りましょう。
おやすみなさい。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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