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お茶とお菓子とメメントモリ

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「自分が死んだ後、この会社がどうなっていて欲しいと思うのか?」

今日はそんな事を考えました。

今、ウチの会社は2人で経営しているとても小さな会社です。

なので、「どちらか1人が、ある日突然死んでしまったらどうしようか?」という話は、時々している話ではあります。

今までは、自分が残された側である事を前提として「どうしたもんかなあ…畳むしかないかなあ」と考える事がほとんどだったんです。
何しろ、自分が死んでしまった後の事は、自分ではどうしようも無いですから、「それは相手が考える事なんじゃないかな」と考えていたというのが大きな理由です。

だけど、今日は冒頭のように考えました。

そこにあったのは、

「自分の遺志はどうなのか?」という事だったんじゃないかなと思っているんですが、詳細までは自分自身でまだ確認しきれてはいないのです。

今までは、「自分が死んでしまったらどうする事もできないと考えていた」とはさっきも書きましたが、それに加えて、「自分が死んだ後の事について、○○して欲しい」なんて、相手の意志や行動を縛ろうとする事になるんじゃないかなとも思っていたような気がするんです。

でも、よくよく考えたら、そもそも「自分が死んでしまったらどうする事もできない」と考えているわけなんですし、それはまぎれもない事実なわけです。もちろん、死んでしまった人間の遺志がどうであろうと「生き残っている人が何を考えどんな行動をするのかは全くの自由」である事は間違いありません。

それに、死者が生者に対して「物理的に何らかの影響を及ぼす事は不可能である」というのは、僕の中にある確固とした持論でもあります(もちろん、世の中には異論があるのは承知していますが特に論争するつもりはございません)。

であれば、冒頭に書いたように、自分が死んだ後についての「希望」を口に出しておくと程度は、何の問題でも無ければ何らかの支障になる事は無いんじゃないかなと思ったんです。

これはもちろん、ウチの会社であれば、僕からの一方的なモノではなく、当然にもう一人からの考えも聴いておく必要があると思っています。

それを言い残しておく事(と相手から聴いておく事)が、その後の残された人が「何をどうするか」考えるうえで、重要な要素の一つになるんじゃないかなと思っているんです。

「あの人は、生前にあんな事を言っていた」というのは、もちろん“呪い”として作用する事もあるとは思います。だけど、それが、“指針”になる事もあると思うんです。

そして、それを“呪い”にするのか“指針”にするのか、はたまた単なる“吹き抜けていった風”とするのかは、全て残された人が考えて行動すればいいだけ。

僕はそんな風に考えています。

そう考えると、僕がこうやって(今のところ)毎日noteを書いて、自分の中にある何らかの考えている事を残しておくというのは、もしも、僕がある日突然いなくなったとしても、この会社を続けていくんだとした場合には、多少なりとも参考になるような要素はみつかるんじゃないかなと思うわけです(そして何より、続けて行って欲しいと思っています)。

当たり前の話ではありますが、これを書いている今この瞬間の僕は、間違いなく生きているわけですし、このnoteは会社のアカウントを使って書いているので、少なくともウチの会社に関わる事だと僕が思って書いている内容に違いないはずなんです(書いている本人でも時々「ホントに会社に関係あるのか?」と思ったりする事はありますが)。

なので、僕がある日突然「急死」したとしても、(それまでに飽きたりして止めていなければ)その前日までの分のnoteがここに残されているはずですので、僕の頭の中にある「この会社」や「この仕事」についての最新の情報の内の一部分については、ここに残されているはずなんです。

「自分が死んだ時の話をするなんて縁起でもない」

そんな言葉をよく見聞きする事がありますが、僕はそういう風に考える事はありません。そもそも「縁起でもない」という言葉もよく考えてみると今一つ意味が測りかねるんじゃないかと、今思っています。

何しろ、「人は必ず死ぬ」という事については「絶対に」と断言できるわけです。今更僕が言うまでも無く、当たり前すぎる程当たり前の話です。

そんな当たり前の話なのに、「縁起でもない」というよくわからない理由で「死」について考える事をしておかないというのは、リスクを軽視しているんじゃないかなと思っていますし、そもそも「考えない事」によって、いずれ誰の身にも必ず降りかかる「死」を遠ざけたつもりになっているだけなんじゃないかなと思うわけです。

「いつか自分に起きる可能性の高い事柄」については、積極的に考えておいた方がいいよねと、今の僕は思うんです(その為にみんな保険に入るかどうか検討したりするわけですよね?)。

生きていると様々なリスクがあるわけですが、その最たるものが「死」なんじゃないかなと。

もちろん、自分や自分の身の周りの人の「死」について考えるっていうのは、慣れるまでは悲しい気持ちになったり、暗い気持ちになったりするのかもしれません。でも、これは必ず誰にも平等にやってくるので、逆に言えば、こんなに誰の身の周りにもありふれていて当たり前にそこら中に転がっていて誰もが人生の最期に体験できる貴重な経験なんだから、もっともっと普段から話し合えればいいのになと思うんです。それこそ、ダイエットの話題みたいに気軽な感じで。

そうしたら、自分の抱えている「リスク」についても、今よりもっと「リアル」に考える事ができるし、「リアル」に考える事によって、より切羽詰まった「自分事」として、今生きているこの時間を、今よりもっと大切に生きられるのかもしれないなあと、思っています。

「色んな事を“自分事”にするためにも、まずは“自分の死”について考えるとこから始めてみるのも良いのかもしれない。これはきっと、瘦せたいからこそ、食べ物についてたくさん考えるというのと同じなのかもしれないなあ」と思っています。

痩せたいから、食べ物についてよく考える。

生きたいから、死についてよく考える。


そんな、気軽な感じで、そこら中にありふれている「死」について考えてみるっていうのも、これから生きていくであろう時間を大いに楽しむためには、とても重要な事なのではないのかなと、ウチの会社では共通認識になってきています。

気軽な感じで、おやつと一緒に「メメントモリ」は如何でしょうか?



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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