結局やっぱりそうなんだよねと思う日々
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「今ここで自分に出来ることって何だろう?」
自分も見を置いているその場で、自分以外の誰かと誰かがいがみ合いを始めた時に、こんなことを考えたりします。
そのいがみ合っている両者が自分と何の関係も無い人だとしたら、もしかしたらこう思うことも無いのかもしれません。そういう場面の記憶は今のところ思い出せないんですが、もしかしたら、“自分と無関係の人同士のいがみ合い”については「ギャーギャーとうるせーな」と思うだけでスルーしていたのかもしれません。
でも、“自分と何らかの関係性のある人同士のいがみ合い”であれば「ああ、困ったな」とか「何とかしなくちゃ」とか「どうしていがみ合いなんて始めるんだろう」とか思ってしまって冒頭のように考えるのかもしれません。
そう考えると、“自分との関係性の有無”によって随分と温度差があるんだなと思ったりもしますが、実際に自分の中からそういうモノが出てくる場合と出てこない場合があるんだからちょっとどうしようもありません。それが僕という人間の器なんだろうと思っています。
そんな僕という人間でも「今ここで出来ることって何だろう?」と思うような場面に遭遇することは生きていると時々あります。
そんな時、いつも感じるのは「結局自分にできることなんて、当事者の話を聞いたり、自分が感じて考えている何かを伝えるくらいしかないんだな」ということです。
例えば、知り合いの経営者同士がいがみ合いを始めた時であっても、家族がいがみ合いを始めた時であっても、他社の会議にファシリテートで入って意見が折り合わなくていがみ合いになりそうになった時も、いつだって当事者が最後まで話切るところまでよく聞いて、そのうえで感じたことを伝えたり、考えたことを伝えたり、そんなことしか出来ることはありません。
その結果どうなるのかは、いつだってやってみないとわかりません。
望んだように丸くおさまることだってあるし、全然望んだような反応にならないことだってあるし、誰もがみんな押し黙ってしまうことだってあったりします。
ただ、自分に出来ることをする前よりも“悪い状況”になることは幸いながらありません。それはきっと、当事者がしたかった話を最後まで話し切ることができるからなんだろうと思っています。
これは僕自身も実感としてわかりますが、自分の言いたかったことを“誰か”が最後まで聞き切ってくれるかどうかというのは、満足感とか納得感のようなモノに大きく関わってくるわけです。あの、「途中で話を遮られたうえに、声のデカいヤツがそこに話をぶち込んできて、自分の話を邪魔されて話を持っていかれる状況への不満」と言ったら、それはそれは大きなモノです。そういう輩は、いつだって確実に“他者の話”を全く聞いていないものです。
そんなことが2度も3度も続けば、いがみ合いは加速するし、お互いに「相手の話は聞かないし、聞きたくないし、話をしたくない」という状態に突入していきます。
当然ながら、こんなのは対話ではありませんし、そもそも会話すら成立してない状態です。
そんな状態になってしまえば、そこから「どうにかする」というのはずいぶんと難しい状態ですし、労力をどれだけかけたところで「どうにかなる」かどうかは全くわかりません。
そして、“自分に関係のある人同士”がそんな状態になるのは、なっていくのは、僕としてもあまり歓迎する状態ではないと考えています。
だから冒頭のように「今ここで自分に出来ることって何だろう?」なんて考えてしまうのかもしれません。
考えたところで、今の僕に出来ることは結局“話を聞く”のと“話をする”だけしかありません。
そんな単純なことしか無いけど、それでもやっぱり「誰かに話を聞いてもらいたい」という思いが僕も含めた誰の中にも必ずあるんだなぁ、ということを、こういう時も含めていつだって感じています。
そういう時に、人間という生き物というのは徹底的に社会的な生き物だと感じますし、「対話って誰にとっても必要だし、誰に対しても有効なんだな」としみじみ実感したりしています。
だから、いがみ合うよりもずっと手前で対話ができればいいんだろうなぁ、なんてとても単純に思っています。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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