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ぜんぶまるっとひとつかみだ

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

今日は久々に濃い目の1日でした。

組織開発で関わらせてもらっている企業を2社、午前と午後でそれぞれガッチリ目の関わりをさせてもらって、夜はとある学びの場にオンラインで参加しました。

組織開発の案件では、関わらせてもらった企業の社員の方々の勇気を持った行動によって大きな変化や成長がたくさんみられ、当然ながらそこで実施しているプロジェクトは前に進んで、個人的にはとてもエキサイティングで記憶に残る日になったと感じています。

また、夜の学びの場では、普段とは違い“違和感”をベースにした切り口からの“学び”を得る事が出来て、何と言うか、これまでにない新しい感覚の“学び”を得る事に繋がりました。

そんな、エキサイティングな一日で、上に書いたように全ては別々の事柄ではあるんですが、これらの事柄が僕にとっては全て“同一線上で繋がっている事柄”のように感じられてなりません。

なので、このnoteを書き始めようとした時に、PCを前にして指をキーボードの上に載せた状態でしばらく今日の出来事を思い出していたんですが、今日の出来事が全て一連の流れというか、全てで一つの出来事のように感じられて、どこもどこからも切り取る事が出来ないような気がしていました。

何でそんな風に感じるのかは今一つ判然としないんですが、こういう事はよくある事なのでそのまましばらく同じポーズで考えていました。

そうすると、「なぜ、全てで一つの出来事のように感じられるのか?」についてボンヤリと何かが浮かんできたような気がしたので書いてみようと思って書き始めたのが、このnoteの内容です。

そもそも、僕の中では“直観”を大事にしているというのが大前提にあるような気がしています。

「気がしています」と書いたのは、“直観”を「大事にしている」というよりも、「まず“直観”が働いてしまう」という方が近いように感じているからです。

様々な物事について“直観”で受け取ってしまっている感覚がいつもあるんです。なので、それによって「分かったような気になってしまう」ことが多いように感じています。

だけど、あくまでも「分かったような気になってしまう」だけであって、文字にあるとおり、「分ける」事は出来ていません。

だから、他者に対して上手く説明ができない事が多いですし、切り分けて考える事がなかなか出来なかったりするんです。

そんなところがあるからなのか、いわゆる“フレームワーク”のようなモノを上手く使う事ができません。

だけど、その“フレームワーク”を使ったのと同じような効果を得るような事を考えるのは苦手ではないような気がしています(実際に「役に立つこと」を考えるのは意外と得意だと自覚していますし、そんな客観的な評価を受ける事もよくあります)。

苦手なのは、「“フレームワーク”を使おうと考えて使いこなす」ことです。

「このフレームワークを使おう」と考えると、そこに脳みそが持っていかれてしまい、実際に“考える”をする事が出来なくなる感覚があるんです。

それよりも、例えば「こんな事象があるんですが、あんな風にしていきたいんです」という時に、それらを“直観”で捉えて、そこについて「役に立つこと」を考えると、あたかも何らかの“フレームワーク”を使ったかのようなモノが出てきている。

そんな状態がよく起きているので、それが今日の一日の仕事の中で起きた出来事を、“全てが繋がっている一つの出来事”として捉えてしまって、切り分けて考える事が出来ないところに影響を及ぼしているモノの正体なんじゃないかなあ。

そんな事を、今は考えています。

スッキリした文章を書きたくても書けないもんですから、スッキリしていない脳みそのままスッキリしていない文章を書いてみたわけですが、今日のような「仕事が上手くいったぜ!」という高揚した気分のまま、こんなゴチャゴチャした頭の中の事を、こんなゴチャゴチャしたまま書いているのは、自分にとっては何とも言えず“楽しさ”すら感じてしまいます。

ここまで読んでくれた方には、あまりのごちゃごちゃ具合に、もしかしたら苦痛さえ感じさせてしまったかもしれませんので、最後まで読んでくれた方だけに向けてお詫びをしておこうと思います。読みづらくてごめんなさい。

だけど、個人的には、高揚感によってこういう状態に陥るのをこれからも何度も味わいたいと思っています。その時はまたお付き合いの程よろしくお願いします。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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