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大事なモノを見るために

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

“目に見えるモノ”だけを見ていると、“目に見えるモノ”をそのまま見ることができなくなるんじゃないか?

最近、こんなことをずっと考えています。

例えば、僕たちが仕事として行っている“他社の組織開発・人材開発”で出会う様々な人たちの話を聴かせてもらっていると、組織の中で起きている“人間関係のもつれ”が組織の問題の真因である場合がとても多いんですが、そのほとんど全ては、その当事者たちが、それぞれの“目の前のコト”だけを見て、そこに囚われてしまい、その周辺やもっとずっと奥にある“目に見えていないコト”だけど実際には最も“大事なコト”をスルーしてしまってグチャグチャな人間関係に仕上がってしまっているケースなんかは“中小企業あるある”だと言い切れるくらいにはどこでも起きています。

そしてこれは、“人間関係のもつれ”以外の“組織の問題”にもそのまま当てはまります。

例えば、「アイツ、入社して結構時間が経つのに他と比べて全然仕事できないんだよなぁ」なんてことが、組織の中の“特定の誰か”を指す話としてそこかしこで起きている状態なんかも同じことです。

その“アイツ”と呼ばれている人は、自分の“目に見えるモノ”だけを見てしまっていて、実際には“仕事”として求められているモノが“目に見えないモノ”になってしまっている、ということを、様々な中小企業の現場で実際に起きているのを見てきました。

それに加えて、「アイツ~全然仕事できないんだよなぁ」と言っていたその人も、“目の前のモノ”だけを見てしまっていて「それだけが全て」になってしまい“アイツ”のことを勝手に評価しているわけですが、その奥に確実に存在しているはずの「なぜ、アイツは時間が経ったのに仕事ができないと評価される状態になっているのか?」ということの理由や原因である“目に見えないモノ”について、気付くこともしなければ、「それって大事なことだから確認しなくちゃ」ということもしていないし、「育てよう」とか「同じ組織(チーム)として一緒に仕事で成果を上げよう」という関りもしていないからこそ、“アイツ”は仕事が今現在もできない状態でいるわけです。

だけど、ほんの少しだけ“自分だけの視点”から離れてみて、自分が身を置いている組織(チーム)が目的としている「成し遂げたいこと=組織の存在理由」みたいなモノを考えてみたとすると、同じ組織内で“人間関係のもつれ”が起きていることで「当事者たちの仕事のパフォーマンスが低下していること」については、「このままで良い」と考えることは難しくなります。

「アイツ~仕事できないんだよなぁ」なんてことを同じ組織の中の誰かが誰かに対して思っている状態とか言っている状態は、上記と同じように「組織としてのパフォーマンスが低下している状態になっている」わけですから、これもまた、“自分だけの視点”ではなく「“組織として”成し遂げたいこと=組織の存在理由」から考えてみた時には、必ず「このままで良い」とは考えられなくなるはずです。

だけど、“人間関係のもつれ”の真っ只中に身を置いていて“目に見えるモノ”がまさにその“もつれそのもの”であるその瞬間に、「組織が成し遂げたいこと=組織の存在理由」について考えて、「腹は立つけど、今のこの“もつれ状態”は確かに良くないなぁ」と考えるというのは“目に見えないモノ”を見ている状態です。

また、「アイツ~仕事できないんだよなぁ」と“目に見えるモノ”である“他者の仕事ぶり”を見て評価をして自分の立ち位置を確認して安心したりしているその時に、もしも、“目に見えないモノ”である「組織としての目的や存在理由」を念頭に置きながら、“目に見えないモノ”である 「“アイツ”が仕事ができないと他者から思われる理由や原因」について考えたり、「それを見つけて解消するためにできる関りを模索するための行動をとる」なんてことができたとしたら、それはとっても“目に見えないモノ”を見たからこそ出来た“役に立つこと”というわけです。

ただ、とっても当たり前の話ではありますが、どうしたって我々は生き物なので“目に見えるモノ”に気を取られますし、ついつい「“目に見えるモノ”が全てだ」と極端な考え方に走りがちです。

もちろん、「誰が見ても“そうだね”としか言いようのないモノ」である“科学的根拠のあるモノ”や“一次情報としての事実”という極めて客観性の高い“目に見えるモノ”は信頼できるモノですし、それらだけを見て、それらだけを頼って、全ての物事を考えて決めていった方がいいような気がする時も出てきます。

でも、もうちょっとだけ考えてみると、実際には「“目に見えないモノ”も、“目に見えるモノ”と同程度には、極めて大事なモノである」ということがハッキリ言えるわけです。

何しろ、“自分以外の全ての他者の考えていること”は“目に見えないモノ”ですから、「どれだけ少なく見積もったとしても、“目に見えるモノ”と同程度には大事なモノ」だと断言できるわけです。

そして、“科学的根拠のあるモノ”という“目に見えるモノ”も、それらはあくまでも「今現在の科学の力で証明されているモノ」という枠内に限定されるので、その枠外の「現在の科学では照明されてないモノ」は“目に見えないモノ”になるわけです。

加えて“時間軸”についても考えてみると、“目に見えるモノ”というのはその大部分が“過去”の話ですし、“目に見えないモノ”というのはそのほとんどが“未来”の話です。その中間に、「“現在”というほんの一瞬」があるわけです。

そんなことを色々考えていると、冒頭のようなことが頭の中に浮かんでくるわけです。

「“目に見えるモノ”だけを見ていると、“目に見えるモノ”をそのまま見ることができなくなるんじゃないか?」って。

“目に見えるモノ”を正しく観察するためには、“目に見えるモノ”だけを見ているんじゃ半分しか見えていない状態かもしれません。
“目に見えないモノ”も見ようとすることが必要になってきて、“目に見えないモノ”もしっかりと捉えることが必要なのかもしれません(かと言って“目に見えないモノ”だけに偏っていってしまうと、途端に、「本当に“目に見えないモノ”だけの世界に突入してそのまま突っ走って行ってしまう」なんてことになってしまうかもしれませんので、これも注意が必要でしょう)。
そうやって、“目に見えるモノ”を見たうえで、“目に見えないモノ”もしっかりと見て捉えることができた時に、ようやく“目に見えるモノ”を正しく観察することができるようになるんじゃないだろうか?

だからこそ、「見えないモノを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ」りするんじゃないかと思えてきますし、「見えてる世界が全てじゃない。見えないモノもいるんだ」なんて大事なことを教えてくれる人がいるのかもしれません。

そういえば、望遠鏡を覗く時も片目だし、「見えてる世界が~」を教えてくれる人も片目だったから、もしかすると、 ”見えないモノ”を見る時にはどちらか片方の目で見ると見やすくなったりするなんてことが・・・(ここからしばし妄想に入ります)。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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