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いつでも自分に投げかけてかなきゃ

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「こうあるべき」が自分の中に存在していていながらそのことに自分が無自覚だったりするとモノゴトがなかなか上手く進まない、なんてことがよくあります。

とは言っても、その時には“そういうこと”に気が付くことができていないので「頑張っているはずなのになぜだかうまくいかないなぁ」なんて思っているんですが、それがなぜなのかはわからないので幾ら考えてみたところでやっぱり上手く進まないわけです。

だけど気が付くことができないとは言っても、実際には「気が付くことができないように自分でそう立ち回ってしまっているから」というのが真相だったりすることがほとんどだったりするから困ります。

もちろん“これ”に気が付くことができるのは「自分でそう立ち回ってしまっていたことを自分が受け入れた後」であるのは言うまでもないんですが、“これ”を受け入れるためにはいつだって必要なモノがあるよなぁとしみじみ感じさせられます。

それは、自分の内側から湧いてくるような「何としてでも、この上手くいかないことを上手く進めたい」という強い欲求であり、その欲求の根源になっている如何ともしがたい“自分にとっての理由”です。

これを僕は“切実さ”と呼んでいるんですが、この“切実さ”があれば「上手くいかないモノゴト」の根底に「自分の中に在る“こうであるべき”という頑迷な固定観念が邪魔をしている」ということを認めることに繋がり、その存在を認めることができれば「上手く進めたい」という“切実さ”によって、とっても受け入れ難い“己の中の頑迷な固定観念”というモノをどうにかしなければならないということも受け入れることができるようになったりします。

とは言え、“己の中の頑迷な固定観念”というモノの存在を認めるということは、過去から現在に至るまでの間でこれまでに数々あったはずの様々な“同様の理由から発生したであろう上手くいかなかったこと”についても遡って認識をあらためて、場合によっては一人反省会を実施しなければならないこともあったりして、なかなか容易には受け入れ難いことも多々あります。

でも、そんな「受け入れ難いことですらもすんなりと受け入れることができるくらいの“切実さ”」があれば、それほど苦にはならないこともあったりします。

これまでに数えきれないくらいの“こういうこと”を経験してきた身からすると、何度も経験するたびに段々と早めに気が付けるようになってきた感覚があります。

例えば、「あ、この感じはもしかしたらいつものように“己の頑迷な固定観念”が邪魔をしてるのかもしれないぞ」とボンヤリと予想ができるようになってきて、その予想ができると“心の受け身”を取れるようになってきます。

「そろそろ、いつもの“痛い”のが来るぞ」と身構えて、「ああ、やっぱりきた」と思いっきり“受け身”を取って衝撃を逃がすことでダメージを軽減する感じです。

そうやって“心の受け身”を取ることによって、全く気が付いていない状態でドカーンと衝撃を喰らうのとでは、圧倒的に“痛み”の度合いも違いますし、その後のレジリエンス速度も変わって来るような気がしています。

もちろん“痛い”のは痛いですし、確実にダメージは受けてしまうのは変わりませんが、その後に引きずったりぐずぐずしたりすることが各段に減りました。

今となっては、冒頭のように「こうあるべき」が自分の前進を阻んでいる要因なんじゃないか?という頭が常にどこかにあるような状態なので、いつでも“己の頑迷な固定観念”によって足を引っ張り続けている可能性を自分で探っているような感覚が常にどこかにあるのかもしれません。

そして、それと同時に“自分の考えていること”について「これでいいんじゃないかな」と極めて強めに肯定的に捉える姿勢も共存しているような感覚があります。

言うなれば、全く合理的な話ではありませんが、全体で100%の枠の中で、100%で「これでいい」と思いつつ100%で「これでいいのか?」と疑っているような状態を同居させて維持しているような感じです。

そんな不合理で整合性の取れないはずの状態をなんとかバランスをとりながら前に進もうとしているからこそ、自分の中に存在している「こうあるべき」を客観的に見つめてそこに対して修正をかけて前に進むことができるのかもしれませんし、逆に言うと、「こうあるべき」という“己の頑迷な固定観念”を正しく自分自身で認識することができなければいつまでたっても「己の望むところで進んで行く」なんてことは出来ないのかもしれませんし、仮に「それができた」と思う瞬間が来たように感じたとしても、その状態を維持継続することができずに何故だかサラサラと流れて崩れていってしまうなんて羽目になるのかもしれません。まるで砂上の楼閣のように。

そうならないためには、足元をしっかり観察して正しく現実を捉えて「ここが砂の上なのかもしれない」と疑ってかかって何度も確認をしながら基礎工事の準備を進めていくしかありません。

本当にそうなのか?本当に大丈夫なのか?そこに自分の思い込みは無いのか?「こうあるべき」で現実を歪めて見つめてはいないか?“己の頑迷な固定観念”という歪んだレンズを通して世界を眺めてはいないか?

いつでも、今この瞬間も、自分はこういう“問いかけ”を自分にできているのかどうか疑ってかかれているんだろうか、どうだろうか。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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