スイッチについて考えてみたら固定観念がスイッチした話
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
ピンポーン
「つぎとまります」
僕の実家から最寄りの駅までは、車でも15分くらいかかるような距離があります。
中高生の頃は、主に自転車で駅まで行っていましたが、それよりもっと小さい小学生の頃はバスに乗らないと行けないような遙か遠いところに駅があるように感じていました。
実家の最寄りのバス停から駅に向かうバスに乗ると、目的地の駅は、バス停の終点でもあったので、いつも降車ボタンを押す機会には恵まれませんでした。
僕は、あの降車ボタンを「どうしても押したい」といつも思っていました。
でも、降車ボタンを押せるのは、駅から実家に向かうためのバスに乗った時だけ。往復の道のりの復路だけでしかそのチャンスは訪れません。
しかも、降車ボタンを押せるのは、当然ながら乗客の中でたった一人であり、そのタイミングは、「自分が降りる停留所の一つ前の停留所を出発してから、自分が降りる停留所に着くよりちょっと前までのたった1~2分間」です。
どうしてもボタンを押したい僕としては、隙を窺って降車ボタンに手が届く位置に移動します。僕が降りる停留所は、駅をスタート地点として見ると、かなり終盤の、バスが行き着く車庫の幾つか手前です。なので、スタート地点では満員だったバスの中もどんどん人が減っていきます。
しかし、僕が降りる停留所の一つ前の地点でも、僕と同世代の子どもが何人も乗っているような状況だと、これはピンチな状況です。
「ボタンを押したいライバル達が何人もいる」
そう認識していました。
もちろん、その状況で案の定、ボタンを押せなかった時もありましたし、首尾良く押せた事もありました。
だけど、あの時「ライバル視」していた僕と同世代の「ボタンを押したい子ども達」は、もしかしたら、僕の思い違いだった可能性が多分に浮上してきました。
これは、今日実施したオンライン哲学対話での出来事です。
今日のテーマは「スイッチ」。
どうしてこんなテーマになったのかには、特に理由はありません。
強いて言うなら、「たまたまそうなった」としか言えません。
はい、もちろん、決めたのは我々プロタゴワークスですが、今はその話はそれほど重要ではありません。
それよりも、このテーマで「問いだし」をして、多数決をとって選ばれた「問い」が、文字通り問題でした。
「問い」は、「人はボタンがあるとなぜ押したくなるのか?」
これを聞いた僕は、「なるほど!確かに、なる!」と思ったんです。
だけど、
これが大きな間違いでした。
「人は、ボタンがあっても、押したくなる人ばかりではない」という事が判明しました。
「ボタンがあっても、押したくならないばかりか、できれば押したくないけど、仕方がないから押す」という話を、何人かの人がしてくれました。
この時、僕は気付きました。
「スイッチというテーマで哲学対話をやるまで、バスの降車ボタンを押したいか押したくないかの話を誰かとこんなに真剣にしたことが無かった」という事に。
これのおかげで、僕がこれまでの人生で微塵も疑う事の無かった「ボタンを見ると押したくなるという感覚」が、普遍的な感覚なんかでは無かったし、なんだったらこの「感覚」だと認識していたものが、実は全く別の何かなんじゃないのかなとさえ、今は、思っています。
これに気付いてしまった今は、「自分の中に、自然に備わっている感覚だと認識していたモノが、実は自分という人間に固有の“特殊な何か”なのかもしれない」と、自分の中の再点検の必要性を感じています。
いや、ほんと、久々の衝撃でした。
これからは、ボタンを見たら、「俺は、これを本当に心から押したいと思っているのか?」と「問い」を立てるところから始めてみようと思っています。
あ、でも、ダイヤルって見るとぐるぐる回したくなりますよね?
あかね
株式会社プロタゴワークス
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