本当は痛いくらいに切実だから
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
「人が“変容”をするためには、“切実さ”が必要なのかもしれない」
これは、僕の中にずっと在り続ける仮説です。
僕は、「変わりたい」とか「変わらなくちゃ」と、どれだけ強く心の中で念じてみたり、誓いを立ててみたり、年始の抱負として語ってみたりしたところで、「ああ、結局また変われなかった…」そんな風に自己嫌悪に陥ったり、落ち込んだりしたことが、これまでに何度も何度もありました。
こんな僕の“変われなかった体験談”と同じような話を他者から聞くこともこれまでにたくさんありました。
ただ、それと同じくらい見聞きする別のケースもあるんです。
「振り返ってみると、いつの間にか変わっていたなぁ。自覚してなかったけど、言われてみると確かに変わったかも。昔の自分と比べると」
なんてケースです。
こんな風に、「いつの間にか“変容”が起きていたことに、事後的に気付く」というケースも“変われなかった体験談”と同じように、それこそ数限りなく見聞きします。
この「いつの間にか~」のケースについて、その人の話をよくよく聴かせてもらったりして、その人について僕が“観察”してきたモノを“解釈”すると、どうしてもそこに、その人の中に在る“切実さ”のようなモノが必ず見えてくるような気がしています。
そして、「ああ、結局また変われなかった…」と嘆いていた過去の自分のような人からは、その“切実さ”のようなモノの存在が見えてこないことがたくさんあるような気がしています。
「いや、ちょっと待てよコノヤロウ。“切実さ”が見えるとか見えないとか適当なことぬかしやがって。「変わりたい」って思ってるワシの思いが嘘だって言うのかよ?こんなに「変わりたい」って思ってるこの思いが“切実”じゃなかったとしたら一体何だってんだよ?」
今日のこのnoteを読んだら、過去の自分が真っ先にこんな声を上げることになるかもしれませんし、こんな風に感じる人ももしかしたらいるのかもしれません。
だけど、そんな“過去の自分”にこうやって言われたとしたら、投げかけてみたい“問い”があります。
例えばこんな“問い”です。
「なぜ、変わりたいんですか?」
そしたら、きっと何かを答えてくれるんじゃないかと思っています。そこからもしかしたら他の“問い”を投げかけることになるかもしれません。
そんなやり取りをしていく中で、こう問いかけることも出てくるんじゃないかと思うんです。
「じゃあ、そのために“役に立つこと”って何ですかね?」
そうしたらまた何かを答えてくれるんだろうと思うんです。そして、また他の“問い”を投げかけることになるでしょう。
そうして、対話が進んで行く中で、きっとこの“問い”を投げかけることになるんじゃないかと想像します。
「“役に立つこと”がわかっているのに、なぜその行動を起こさないんですか?」
今の僕が考える“切実さ”というのは、この部分を指しているんじゃないかと思っています。
自分の中に“切実さ”が在るのであれば、自分が「こうしたいんだ」と強く願っていることに近づくための“役に立つこと”は、「もう既に行動している」はずだろうと考えています。この「もう既に行動している」ということこそが“切実さ”であり、「まだ行動していない」のであればその状態はこんな風にも言い換えられるんじゃないかと考えています。
「まだ、自分自身が労力を割いたり、コストを払ったり、リスクを取ったりするほどには“切実ではない”と判断して、“行動しない”という選択をしている」と。
だからこそ、人は「事後的に振り返ってみて“変容”が起きていたことに気が付く」なんてことになるのかもしれません。
「そんなことを何となく感じてボンヤリと考えていたからこそ、冒頭のような仮説を立てるに至ったのかもしれない」なんてことを、今こうやって文章にすることで初めて理解できた気がします。
「人が“変容”をするためには、“切実さ”が必要なのかもしれない」
そして、“切実さ”があれば必ず“行動”として現れますし、“行動”として現われていないのであれば、それはまだ“切実”ではない状態である。
これは、僕の実感としても、僕の観測範囲内においても、ほぼ間違いない事実でもあります。
この仮設が僕の中でほぼ確実なモノになってしまったために、これからは「“切実さ”が自分の中に在るのかどうか?」が一瞬で判断できてしまうようになりました。
こうやって徐々に、自分が自分に言い訳のできない状態になっていくのを感じつつ、「これも自己研鑽ってことなのかもしれないなぁ」と“言い訳”するのを諦めるという“切実さ”を実践していこうと思っています。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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