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おなじ景色が見えたらいいね

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

「他者とイメージを共有するのって難しいよなぁ」

そんな風に思うことが、日々の中で本当にたくさんあります。

特によく思うのが“仕事”の場面です。
仕事の場面で“イメージの共有”ができないと、その仕事は思うように進みません。自分一人だけで進めることができる作業であればそれほど関係無い話なのかもしれませんが、よくよく考えてみれば、今自分の目の前にある“自分一人で進める作業”だって、その作業の前後には必ず“自分以外の他者の関わり”が存在しています。何しろ、“仕事”である以上は「自分以外の他者の役に立つこと」というのが絶対に不可欠な要件になってくるわけなので、仮に「自分の仕事は、自分一人で最初から最後まで完結している」と思うような仕事があったとしても、それはただ何らかの要因によって“錯覚”が起きてしまっているがためにそう思ってしまうのかもしれません。

そして、そこに必ず存在している“自分以外の他者の関わり”があるがために、他者とイメージの共有ができないと、もしくは、「その仕事を遂行するために必要なレベルでのイメージの共有」ができていないと、必ずダメージを負うことになります。そして、その状態をほったらかしにしておけば、いずれ途轍もなく大きなダメージを負うことになります。これは、「必ずそうなります」と断言できるくらい確実な話です。

そのダメージは、当然ながら自分自身も負うでしょうし、相手も負うでしょうし、自分や相手が所属する組織ももちろん負うでしょうし、仕事によってはそれだけでは留まらず“さらにその先にいる人達”へと波及していき、その内容によっては“さらにその先”の範囲がどんどん広がっていくことだってあるわけです。そして、そのダメージは大なり小なり“必ず”エンドユーザーのところにまで波及しているはずです。

とは言え、「エンドユーザーにまで波及したダメージ」が定量的に計測できたり可視化されたりするレベルであれば、それはもう「誰の目から見ても明らかなダメージ」として社会的に認められてしまう程のレベルなので、もはやそこから目を背けようとしてもそれはできない状態なので、「そのダメージに気付くことができない」ということは起きません。それどころか、かなり大変な状態に陥ってしまうことになるでしょう。

そんな風に、「“イメージの共有”ができないことによるダメージの“本当の姿”」は、こうやって考えてみると、それを事前に定量的に計測することはほぼ不可能だということが見えてきます。

なので、定量的に測れるダメージとしては“目に見えて把握できる数字としての損失”程度のモノしかないわけです。

そして、その“目に見えて把握できる数字としての損失”程度のモノであっても、その“目に見えて把握できるダメージ”ですらも、その仕事に携わっていた当事者の個人レベルで捉えてみると「うわー、これは痛いぞ」とか「マジでヤバいことになった」と感じてしまうでしょうし、大抵の人であれば強烈な自己嫌悪に陥ったりと、周囲の人や組織に迷惑をかけてしまったことによる精神的なダメージを受けるようなことに繋がっていきます。

そんな大変な“仕事によるダメージ”は、その真因を辿っていくと「(その仕事に関わる人達の間で)イメージの共有が出来ていない」ということが必ずと言っていいほど出てきます。

ここまでの話について、「いやいや、そんなの当たり前でしょ。何言ってんの今更さ」という感想を持った人がいたとすると、その人は恐らくマネジメントに深く取り組んでいる人だったり、“対話”に取り組んでいる人なんじゃないかなと思います。

逆に、「いやいや、そんなわけないでしょ。イメージの共有なんて出来てるに決まってるじゃん」という感想を持った人がいたとすると、その人はきっと“仕事を遂行する能力の高い人”なのかもしれませんし、“他者とのコミュニケーション”に自信がある人なのかもしれません。

どんな感想を持ったにても、“仕事”について少し時間をとって「もしも“他者とイメージを共有する”ということが出来ていたとしたらどうなるのか?」なんてことを考えてみることで、“他者とのイメージの共有”が本当にできているかどうか?が見えてくるような気がしています。

そんな時に思い出すのが、組織開発で他社に関わらせてもらう中で、経営者や社員の人達から時々聞かせてもらうことのあるこんな話です。

「自分がもう○人いたら、もっと楽になるのになぁ」

この話は、そのままの意味で受け取るのであれば、まさに「今ここにいる自分と同じ考えをして同じ動きをすることのできる人が○人いたらなぁ」という意味になるわけで、それはすなわち、「“他者とイメージを共有する”ことの難しさ」を認識しているから出てくる話ってことなんじゃないかと思うんです。

かと言って、何から何まで逐一全てにおいて「大枠から細部まで」のイメージの共有がしたいわけでもないんだろうとも思うんです。

だから、“仕事”をする時はいつでもこんな“問い”について考えてみるだけで、“他者とのイメージの共有”がだいぶ楽になるんじゃないかなと考えています。

「この仕事をするうえで必要なレベルでのイメージの共有ができているかどうか?」

もちろん、この“問い”を考えるうえで大前提となってくるのが、「この仕事をするうえで必要なレベル」という部分です。これを自分の中で“可能な限り詳細に”明らかにしておくことができれば、他者とのイメージの共有に困ることはグンと減ってくるでしょうし、その結果、“仕事”が今よりも更に上手くスムーズに進んで成果にも繋がりやすくなってくるのは間違いありません。

それがわかっているからこそ、他者と仕事をする時には自分以外の人達の様子をよく観察して、頭の上に“ハテナ?”が浮かんでいないかどうかを常に気をつけて、ちょっとでも“ハテナ?”が浮かんだように感じたら、そこですかさずフォローをすることに全力を傾けています。

そんなことを気にしながらなので、難しい説明をすることが必要な時には“それ”が得意な仲間の力を借りることにしています。

そうやって他力本願でやっていくことに全力を傾けているので、ウチが他者と協働する際に生じている“イメージの共有”の際に起きるズレは、今ではかなり早期に対応できている実感がありますし、致命的なズレは生じないようになってきた実感があります。

そんな実感をしながら、しみじみと自分達が過去に直面してきた数多の「イメージの共有がズレたことによるダメージ」を思い出しては、「よくぞここまできたもんだ」と自分達に対して賞賛を送りたい気持ちになることがあります。

今日も「この仕事をするうえで必要なレベルのイメージの共有」について考えてみたことで、何とか窮地を脱することができました。今後も続けていこうと思っています。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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