見ているのか見えているのか
こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。
1年の中で、今みたいにとっても暑い時期はもちろんですが、大体5月~10月くらいの間の休日はずっとTシャツと短パンで過ごしています。
そんな感じなので、この時期は身に付ける物がとっても少ないので、せめてものオシャレ(?)ということでTシャツは出来る限り“気に入った物”を着るようにしています。
僕の中では「これはカッコいいぞ!」と思った物しか着ていないはずなんですが、時々その休日に着ているTシャツ姿で仲間に会ったりすると「また変なTシャツ着てますね」と言われたりするんですが、僕には理由が全くわかりません。
僕以外の人達からは何故だか好評とは言い難いらしいTシャツですが、それでも僕は大のお気に入りの物ばかりなので休みの日に「今日はどのTシャツにしようかな~」なんてウキウキしながら選んでいたりするわけです。
先日もそんなTシャツを着て家族と出かけたんですが、僕は自他共に認める“歩くのが遅いヤツ”なので毎度のことながら家族は少し先を歩いていっているので一人で歩いていました。
歩いていると、見知らぬ家族一行とすれ違いました。そこは建物の一角で、僕がこれから曲がって進んで行こうと思っていた角から、その家族が歩いてきました。そんなに幅の広く無い通路だったので壁側にどいて待っていると、先頭をお父さん(らしき人)が歩いていて、続いてお母さん(らしき人)が小さな女の子と手を繋いで歩いていて、すぐ後ろを少し大きな男の子が歩いていきました。その男の子の後ろからバタバタという音を響かせながら「待ってー」といいながら走って来る小学校高学年くらいの男の子の姿が。そこまでは至ってよくある光景です。この男の子が通り過ぎていった後に歩いて行こうと思っていました。
すると、その男の子が、僕の方をチラッと見てなぜか立ち止まりました。「あんなに急いでいた感じだったのにどうしたんだろう?」と思いました。「知り合いの子かな?」と思うまでもなく、全く見ず知らずの男の子だったので少し不思議でした。
そうして、ジッと僕の方を見てきます。まさに凝視という感じです。
その男の子の突然の行動に、僕は少し驚きつつも、その不自然な凝視に大人げなくも少しムッとしました。「人の方を遠慮も無くジッと凝視してくるなんて、随分と失礼な子どもだな」と思ったその時に、その男の子がこんなことを言いました。
「あ、〇〇〇」と。
びっくりしました。いきなり、僕が着ていたTシャツのキャラクター名がその子の口から出てきたので。でも、合点がいきました。
「この子が凝視していたのは、僕という人間ではなくて、僕が着ていたTシャツのキャラクターだったんだな」と。
そこでとっさに出来る限りの笑顔(のつもり)で僕も言葉を返しました。
「そう、〇〇〇。好きなの?」
そしたら、無言で走り去っていきました。
実際の時間にすると、恐らく、彼の足音を聞いてから数秒の出来事です。
不審者だと思われたのかどうかはわかりませんが、あらためて「自分は子どもには(にも?)人気が無い」ということを認識させられつつ、このTシャツに描かれているキャラクターが登場する漫画は、僕が子どもの頃に連載していた漫画なので「よく今の時代の子どもがこのキャラクターを知っていたよなぁ」と思いつつ、さっき歩いて行ったお父さんの影響だったりするのかなぁなんて人様の家庭について想像しながら、Tシャツの人気ぶりと自分自身の不人気ぶりを反芻しつつ、若干傷つきながらも歩き始めました。
そうして歩いているうちに、ふと思い出しました。
「そういえば、この間の休日も、エスカレーターに乗る前からずっとこっちを凝視していたオジサンがいて“何なんだアイツは”なんてイラっとしたけど、そういえばあの時に着ていたTシャツはプロレスラーのTシャツだったなぁ」と。そして、それ以外にも同じようなことがこの夏に何度かあったことを。
そうして気が付きました。
「ということは、これら全てにおいて相手が見ていたのは“自分”ではなくて“Tシャツ”だったということであり、その相手の視線を誘導していたのは、このTシャツを好んで着ている自分自身であり、それをしておきながら他者からの視線を向けられて見られることに対してイラっとしていた」ということに。
これに気が付いた時、愕然としました。
自分の無自覚な行動と、その行動によって起きている他者からの反応に自分がストレスを感じていたことと、そもそもそのストレスを生み出していたのが自分自身だったということに。
つまり、あまりの自分自身のアホさ加減に。
「そんな恥ずかしくてしょうもない自分が、自分自身の中に確実に存在している」。この事実と、それに気が付いたことも含めて、自分の中でひた隠しにしておいて、「そんな自分なんてモノは存在しないよ」ということにしておいても良かったんですが、やっぱりそういう“自分自身のしょうもなさ”というのはせめて仲間には知っておいてもらう必要があるだろうと思って、パートナー企業へ訪問した帰り道にこの話をしました。
その途中に立ち寄ったコンビニの駐車場で車を停めて話をしていると、コンビニから出てきて車に向かって歩いて行く若い男性が目に留まりました。
その男性が着ている半袖のシャツの背中に大きな文字でこう書かれていました。
IT's AMAZING!
その文字の下には何かの写真がプリントされていました。
その男性の着ているシャツの写真が何なのかを確認したくて、僕はその男性が車に乗り込んで座席に座るまでずっと目で追いながら、仲間に言いました。
「今、アメージングって文字と何かの写真がプリントしてあるシャツを着ている人が歩いていったんですけど何がアメージングだったのか確認できませんでした」と。
そしたら、こんな返答がありました。
「そういうことですよ。みんな、気になる物は目で追っちゃうんです。別に、相手のことを見てるわけじゃないんですよ」
そう言われてはじめて、「自分が、あの男性を“目で追う”という行為をしていた」という事に気付かされましたし、誰もが気になる物を目で追ってしまうということが腑に落ちました。
僕も、みんなも、誰もが、相手のことなんて見ていない。見ているのは、“自分が気になっているモノ”だけ。
それが、洋服や身に付けている物や持ち物なのか、それとも、その人の髪型や動きや立ち居振る舞いなのか、それともただ単に“動いていて気になったから”なのか、それは誰にもわからないし、見ている本人もこの時の僕のように「自分が、相手のことを見ている」なんてつもりが全く無いのかもしれませんし、自分が何かを目で追っているなんて気が付いてすらいないことがほとんどなのかもしれないけれど。
そもそも、「自分が何かを見ている」ことに気が付いている人もほとんどいないのかもしれないし、「見ている」ことに気が付いているとしても「見たい物・気になった物しか見えていない」し、「見ている物が、“自分の見たい物・気になった物”になっているということに気が付いていることすらほとんど無いんじゃないだろうか、なんて感じています。
「今、何を見ているのか?今、何が見えているのか?」
そういうことに、常に気付き続けることが自分に必要なことだなぁと、この“Tシャツ事変”以降ずっと考えています。
あかね
株式会社プロタゴワークス
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