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アクセル踏んでいつの間にやら一人だけ

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「自分が気が付かないうちに、時代はとっくに変わっていたんだ」

そう気付かされる事がありました。

僕が乗っている車は、そろそろ買ってから10年が経とうとしている年季の入った車です。気が付けば走行距離もとっくの昔に12万キロを超えていて、そろそろ何らかの不具合が出てもおかしくないんじゃ無いだろうか?という漠然とした不安を抱えつつも、相変わらず僕のあまり上手とは言えない運転に懸命に応えつつ色んなところに連れて行ってくれる頼もしい相棒です。

その愛車と2年に1回やってくる短期のお別れである車検のタイミングが今月です。

そんな、2年も前からあらかじめ分かりきっていた車検のタイミングを、あろうことか、僕は先日まで忘れていました。もうちょっと正確に言うと、先日まで気にしていなかったし思い出してもいませんでした。周りの人に声をかけられたことで思い出したんです。こういう時、いつも以上に「周りの人のお陰で生きていられているだけなんだなあ」と強く思います。

そして、こういう事がある度に痛感するんです。

自分が「“致命的に”事務手続きができない」という事に。

例えば、所属している組織団体や行政から通知される何らかの手続きが“できない”事が原因で致命的に追い込まれてしまうという事が、過去に何度もありました。

ここに書いた事について、「自分の事なのに“できない”と言うなんて、自分がやっていない事を棚に上げて何かのせいにしようとしているなんて、とんでもねー野郎だ」と思われた方がいたとしたら、それはきっとその方の認識する通りだとも思う部分は僕の中にもあるので特に釈明するつもりはありません。仰るとおり、ごもっとも。

だけど、僕の中で起きている事は、「傍から見たときにどう見えるか」とは全く別の有りようだったりするわけです。

僕の事をご存じ無い方がほとんどだと思うんですが、僕は見た目通り(?)とても繊細な人間です。繊細という言葉が似つかわしくないのであれば、「気にしい」と言う方がしっくりくるかもしれません。常に、細かい事や些細な事を気にして生きているという自覚があります。

何かをすれば「ああ、やってしまった。もしも、あんな事になったらどうしよう」とか、何かをしようかなと思っただけでも「ああでも、もしも、そんな風になったらどうするんだろう」とか、何かをしなかったら「これをやらないと決めたけど、もしもこれが無くて一大事になったとしたら」とか。書き出せば無限にかけるであろうこんな感じの「気にしてしまう事柄」があるんです(まあ、こんな感じだからこそ「リスクマネジメント」では他者に無い段階から感知できるという強みにもなっているんだとは自覚していますが)。

そういう人間が、「行政から通知のあった何らかの手続き」について「俺はこんなのやらないぜ!」という強い意志を持って「やらない」という選択をしているはずは無いんです。それをやらない事で起きるリスクについては、恐らく誰よりも痛い目に遭っているし、そもそもそれらは全部事前に感知できているので。

だからこそ、例えば「車検」みたいな強制力のある事は、「何を差し置いてでもすぐに終わらせたい」こんな事は、恐らく僕が一番強く思っているんじゃないだろうか?そんな事を想像してしまうくらいには、本当にすぐに終わらせたい。何を差し置いてでも。

それだけの強い気持ちや動機があるにも関わらず、過去に「こういう事」で数え切れないくらいの致命傷を負ってきているはずなのに、だけど、なぜなのか、自分でもわからないけどそう思っている事ほど自分一人の力では「できない」。

「甘えがあるんだよ」
「怠け者なんだよね」
「つかえないからしょうがない」
「やる気が無いからじゃない?」
「ホントはやりたくないんでしょ?」etc。

もしかしたら、かつて色んな人が僕に投げかけてきたらこういう類いの言葉は、僕という人間について全部該当するのかもしれません。

だけど、僕にはそれが真実かどうかは全くわかりません。

僕の内面では、「やらないといけない事」という認識は確実にあるし、「やらないと自分が困る事になる」という認識も確実にあるし、車検の事であれば「車に乗れなくていいとは思っていない」という明確な意志もあります。

だから、言われてきたことについては「全て間違っています。何を見てるんですかねその節穴は?」と思ってきたのも事実ですし、かといって、相手から僕を見たときの見え方については「あなたからそう見えるんだからあなたにとっては真実なのかもしれません」とも思うんです。

なので、実際には、「僕がやらなかった」と思いたい方はそう思っていてもらって差し支えないですし、「僕には出来なかった」だとしてもそれによって社会的な評価や対応が僕にだけ優しくなるわけじゃないのもよくよくわかっているわけなので、特にどちらでも構わないと思ってはいるわけです。ただ、使う言葉は当然ながら「主観」によるだけです。

僕がこんな感じ“だから”なのかは全くわかりませんが、僕の周りには僕の「できない」事を助けてくれる人がとてもたくさんいてくれるなあと、僕はいつも思っていますし、もちろんどんな言葉でも言い表せないレベルでの感謝をしています。

僕には出来ない事を「苦も無くさらりとやってのけてくれる」という人達は、僕から見たら(神様に会ったことはありませんが)「まるでこの僕を苦しみの地獄からすくい上げてくれる神様のようだ」と思わずにはいられません。

そういう人達のお陰で、今回の車検も無事に期限に間に合わせて車屋さんに自分の車を持っていき、しっかりお願いして預けてくる事ができました。

一通りの手続きが終わり、代車を借してもらってその車で帰宅しようとしたその時です。

車屋さんの敷地から一般道に出る為の一時停止をしていたら、急にエンジンが止まりました。

「うわーーーエンジンが止まっちゃった」と軽くパニックになる直前の自分がそこに居るのが見えました。それと同時に、「あー、軽自動車なら確かこういう“アイドリングストップ機能”が着いてるって聞いた気がする」という言葉と一つの「問い」が頭の中に響きました。

「もしや、これがあの噂に名高いアイドリングストップという機能なのでは?その状態でアクセルを踏んだらどうなるのか?」

そう思って、少しだけやってみました。
すると、どうでしょう。
代車は、まるで何事も無かったかのように難なく動き出しました。

自分が軽自動車に乗っていた10数年前にはアイドリングストップ機能なんて乗ったことも無ければ、持っている人も周囲にはいないという状況でした。そこからまるでタイムスリップでもしてきた人のような反応をしてしまっていたなと、思い出して少し面白く感じています。

そういえば、これと同じような感覚は、ETCカードを装備した車で高速道路を初めて走った時にも感じたような記憶が甦ってきました。

テクノロジーの進化は確実に我々の暮らしの利便性をあげてくれているし、これからも加速している方向性だろうと言われている。だからこそ、色んな分野で最先端のテクノロジーが発揮されていますし、ITに関連する事柄についてもそうなっています。

だけど、いわゆる「事務手続き」みたいな、僕が最も苦手とする分野については、まだまだ紙での連絡がやってきます。

個人的には、願わくば、「“ソフト更新”の案内みたいに、期日が近づいたらその手続きについていつも教えてくれるようなツール」が欲しいんです。

広告や宣伝については、過去の履歴を参考にしたり消費者側の無意識をよく反映しているCMがwebを通じて僕の元にも流れてくるようになっているので、それと同じような(だけど実際にはもっとレベルの低めなヤツ)モノを行政等でも作ってお知らせしてくれるとありがたいなあと思っています。

と書いてはみましたが、もしかしたら、僕の知らないどかしらで既にそういうサービスが実施されている可能性もたくさんあるんじゃないかなあとおもっています。

と言うか、僕だけがこの時代に取り残されていて、時代はもっとずっと先に行っているのかもしれません。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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