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やさしくなりたいのでしょうか

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「“優しい”ってどういうことなんでしょうね?」

いつものように社内で仲間と対話をしている時に、こんな問いが投げかけられました。

そうやって問われて考えてみると、僕自身は“優しさ”というモノについて日頃からあまり考えていなかったなぁということに気が付きました。

どうしてあまり考えていなかったんだろう?と考えてみたんですが、そもそも「誰かが誰かに対して優しいかどうか」についてあまり興味を持っていないからかもしれません。
なぜなら、「誰かが誰かに対して優しいかどうか」が決まるとしたら、それは“他者の評価”によってのみ判断されることになっているからです。

例えば、僕がAさんに向けて「そうだ。“優しさ”を発揮して〇〇をしてあげよう」と思い立ちその行動を起こしたとしても、その〇〇という行動がAさんの視点から「優しくしてもらった」と捉えるかどうかは僕にはわかりません。もしもAさんが、僕のとった〇〇の行動で迷惑を被っていたとしても「それ、迷惑なんですけど」と言ってもらえない限りはわかりませんし、「ありがとうございます」なんて言われてしまえば「ああ、自分は〇〇ができたから“優しい”人間だなぁ」と僕が自分について考えてしまうとしたら・・・「そんな自分は嫌だよなぁ」と実際の僕自身は思ってしまいますし、実際の僕は自分自身を「優しい人間だ」なんて考えることはできません。

だけど、上の例での僕がAさんに対してした行動の場面を見ていた第三者のBさんが、その後にAさんの本心を聞くことも無く過ごしていたら、もしかすると「あの、あかねってヤツは“優しい”ヤツだ」なんて思うことはあるかもしれません。
そして、あろうことかBさんの友人であるCさんに「アイツは“優しい”ヤツなんだよ」なんて話をしてしまうかもしれません。そして、その現場を見てもいないしAさんの本心を聞くこともないし僕ともその件について話をすることもなかったCさんはまた誰かにその話を伝えてしまう。

そんなことが起きてしまうと、そこでの僕に対して「“優しい”人である」という風評が立ってしまうかもしれません。本当に“優しい人”なのかどうかとは一切の関係がないままに。

そんな風にして、誰かに対しての“優しい”という評価は誰かがするものであって、決して自分で決めることはできないモノである。そう考えているからこそ、僕自身は「優しいかどうか」についてあまり興味が無いのかもしれないなと考えています。

そんな“優しさ”とは対極にあるっぽい“厳しさ”というモノについても同じように考えています。

誰かや何かが“優しい”のか“厳しい”のかは、それを受け取った人や見聞きした人が勝手に決めることであって、その人・モノ・コト自体は、性質として“優しい”とか“厳しい”というモノを備えているわけではないんじゃないか。そんな風に考えています。

だけど、昔の僕は“優しさ”ということを常に気にしていたような覚えがあります。

その昔、生まれて初めて仕事において“部下”を持った時のことです(しかも、いきなり何人も)。

その時は、「できるだけ、部下のみんなに“優しく”接しよう」なんてことを明確に意識して振舞っていました。

そうやって意識して振舞っていたからなのかどうかはわかりませんが、その時はそれなりにワイワイガヤガヤとしていて、当時の僕は「部下を持つのがはじめてにしては、それなりに“いい雰囲気”の職場づくりが出来ているんじゃないか」と思っていたことも覚えています。

だけど、そんな“優しさ”を大事に考えていたからなのか、部下の仕事への取組み方や成果の足りなさが目に付いても真っすぐに指摘をすることができなくて、部下にとって欲しい行動をとってもらうことができなかったので、そうなると当然ながら成果もあまり上がりませんでした。当然ながら、僕の上司からは「何しているんだ?」と注意を受けましたしガッチリ詰められて色んな指摘を受けました。

その中で、「お前は“優しさ”だと思って振舞っているのかもしれないけど、仕事の中で必要な指摘もできていないようなのは“優しさ”じゃなくてヌルイだけだ」というようなニュアンスの話をされたと記憶しています(いまいちうろ覚えですが)。

その時の僕は確かに「部下には“優しく”振舞おう」と思っていたので結構ショックを受けたことを記憶していますが、言われたことについては「確かにそうだな。“優しさ”なんてモノよりも、仕事を進められるかどうかの方が重要だ」と納得しました(ただ、同時に、「それなら“上司としての振舞い方”を最初から教えておいてくれればよかったのでは?」と思ったことも覚えています)。

そこから紆余曲折を経て、仕事においてはただただ“役に立つこと”だけを考えています。

誰かから見た時の僕が“どんなヤツ”であったとしても、仕事については「目的に向けて“役に立つこと”をやる」ということしか考えていないし、それ以外にはあまり興味を持つことができません。

僕が誰かから見て“優しいヤツ”なのか“厳しいヤツ”なのか、はたまた“どうしようもないヤツ”なのか“いいかげんなヤツ”なのかは、その誰かが自由に決めればいいんじゃないかと思っています。誰かにどんな評価を受けていても「まあ、しょうがないか。その人からはそう見えたってことだから」と思っています。

もちろん、僕も一応は人間の心を持っていると自覚はしているのでネガティブな評価を直接ぶつけられると傷つくことは傷つきます。なので、どうぞお手柔らかに。

そうして、僕という人間についての評価はとりあえず一旦脇に置いておいて、そして、自分自身の中に湧いてくる「“優しい”かどうか?」なんてものも一旦脇に置いておいて、「目的から考えたら、“役に立つこと”って何だろう?」について、僕と一緒に考えてもらえたらなと思っています。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/

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